気候変動への適応など忘れよう -経済開発による気候への適応こそ重要だ-

表題を見て「えええ!?どういうこと!?」と思いましたが、なるほど「気候変動への適応」と「気候への適応」という区別があるそうで。初めて知りました。忘れないようにメモメモ。

“実際のところ、人類はこれまで、様々な気候に対して十分に適応してきたとは言い難い。私たちの歴史的な気候は、穏やかさや優しさからは程遠く、私たちの幸福には無頓着であり、しばしば敵対的ですらあった。だからこそ歴史を紐解けば、気候が社会に壊滅的な影響を与えた事例が数多く存在するのだ。

 同時に人類は、気候変化による悪影響が顕在化するよりも以前に、気候が本来持っている敵意に対する防御力を強化することに大成功を収めてきた。このような気候への適応(いわゆる気候変動への適応とは異なる)は、国連の報告書や地方自治体の取り組みに関連した新しい現象と言うわけではない。むしろ、経済発展や技術進歩に後押しされ、環境に対する人類の脆弱性を減らそうとする、絶え間ない原動力が継続していているだけのことだ。”

“私たちの頑強性の向上をこれほど強く裏付ける経験的証拠があるにもかかわらず、なぜ適応は「効果がない」だとか、アル・ゴアが言うように「怠惰な対処療法(lazy cop-out)」だとか、さらには「非道徳的」だとか、といったように、ずいぶんと評判が悪いのだろうか。

 文化的には、気候変動への懸念を表明することと結びついた社会資本が非常に多く、頑強性の向上と言う成功を認めることは、その懸念を弱めることにつながるからだ。また、自然への追加的な影響をおよぼすことは、伝統的な環境保護主義の枠組みのもとでは、本質的に道徳的に間違っており、必然的に自己破壊的であると見なされてきた。そのため、適応は効果がないとみなす社会的・道徳的な動機付けはかなり大きいものとなっている。

 適応の評判が悪い理由として、よりテクニカルなこともある。それは適応の効果に関する学術的研究が、公式報告書やその後のニュースの見出しを支えているからである。この場合、研究は「気候変動」への適応に焦点を当て、一般的な「気候」への適応を除外した狭い定義をすることによって、適応の効果が相対的に低い、とすることが多い。より具体的に言うと、適応は、気候が変化した場合に、変化していない場合に比べて追加的な技術や活動のみを含むよう定義される傾向が強い。”

“社会において、私たちは「純粋な」気候変動への適応となる技術や行動を、あらゆる気候に対して社会を強化するものと比較して、区別する必要が本当にあるのだろうか?私はそうは思わない。

 しかし、このテクニカルな区別は、学術的な学術雑誌の枠を抜け出し、気候変動への適応は効果がないという一般市民の感情の根底となっている。例えば、この狭義の適応の定義は、農作物生産における適応は気候変動の悪影響を相殺するには不十分であろうというIPCCの主張を裏付けている(温暖化が進むにつれて農作物の収量が増加するという一般的な言及があるにもかかわらず)。”

“・世界の洪水(年間最大河川流量で評価)には一貫した傾向はなく、予測される変化は比較的小さい。

・世界の干ばつ(連続乾燥日数で評価)には一貫した傾向はなく、予測される変化は比較的小さい。水温が下がるため、食器洗いなど炊事にお湯を使うため

・世界のハリケーン活動(積算サイクロンエネルギーで評価)には傾向がなく、予測される変化も小さい。

・米国の竜巻と雹(ひょう)の活動には統計的な傾向はなく、予測される変化も比較的小さい。

・世界の山火事活動は減少傾向を示しており、将来予測は不確実性が高く、人間の土地利用と土地管理に大きく依存している。

 以上の事実から、私たちはこれらの危険に対して十分に適応しており、したがって、これらの危険に対する脆弱性をさらに減らすことに関心を持つ必要はないと言えるだろうか?

 もちろんそうではない!これらの危険はすべて、人間の生命と財産にとって極めて有害であり、そして私たちは、これらに対する備えを確実に維持し、あるいはさらに強化する必要があるのだ。”

“あらゆる災害において、正確な天気予報と効率的な警報の伝達は最も重要であり、非常に価値がある。しかし繰り返しになるが、これらは気候変動に適応するために開発されたものではなく、むしろ厳しい気候条件に対する一般的な頑強性を高める「気候への適応」のために開発されたものである。”

“なぜ、高所得地域の食料不安や自然災害による死亡率は比較的低いのか。それは、これらの国々で何十年も前に始められた気候変動への適応のための壮大な政策によるものなのか、それとも単に社会全体の豊かさを反映したものなのか。それは主に後者で間違いない。

 つまり、エネルギー貧困の削減と経済成長の促進こそ、世界規模で気候への適応を加速させる鍵なのである。”

“豊かで技術的に進んだ社会とは、ハリケーンの接近をさまざまなメディアを通じて数日前に知らされるような社会である。そして、すでに頑丈に建てられ、最新設備が整った家に、自宅のSUV車を使ってハリケーン用シャッターを手に入れ(あるいはアマゾンに配達してもらい)、取付を行い、その後、災害の際はそのSUV車を使ってより安全な場所にある手頃なホテルに避難することができる、というわけだ。そして、嵐の後、災害対応チームが道路を整地し、数日のうちに電気が復旧し、エアコンが稼働する地域に安全に戻ることができる、そんな社会である。

 大規模な防潮堤システムの構築のように、ほぼ間違いなく政府が支配的な権限を持っているプロジェクトでさえ、それらのプロジェクトの資金を賄うためには裕福な税収基盤が必要である。”

“一般的な「気候への適応」のために確立された成功の道筋を受け入れることこそがヘッドラインを飾るべき話題であり、気候変動への適応というのはオマケに過ぎない。気候によって社会がどの程度の悪影響を受けるかは、主に社会の富によって決定され、その富は依然として温室効果ガス排出量と結びついている。したがって、気候への適応を加速させるためには、炭素予算が限界に近付きつつあるまたは既に破られていると主張する制限的なエネルギー政策よりも、一般的な経済開発こそが重要なのだ。”

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