パパが嫌いって子どもに言われて傷つく人は、真剣に育児に取り組んでないのでは
ドラマや漫画で、娘が「パパなんて嫌い!」のようなことを言って父親が傷つくシーンをたまに見ます。実際に父親として育児をするようになって早3年、初めて娘にパパのことが嫌いと言われた時に上記の漫画のシーンが脳裏によぎりました。
言われても一切のダメージは無かったのですが、何でダメージがないのか少し考えました。
結論を先に書くと
育児は飴と鞭のトレードオフとなる部分があるが、上記の父親は鞭の部分に関して無関心だったんじゃないですか、と思ってます。
詳細を下記に続けます。
育児の目的と家庭の目指す姿
そもそもの目的に立ち返ります。僕は子どもに対し、成長過程(20代前半まで)で身につけてほしい要素を次の優先順位として考えています。
0. 共同体へ適応する能力(=社会性の会得)
1. 物事への興味、関心、好奇心
2. 論理的に思考する力
3. 決断する力
この優先順位に関する議論は別の記事で書こうと思いますので、一旦流して進めて頂けると幸いです。
この中の0. 共同体へ適応する能力(=社会性の会得)をある程度育む上で、生活における最低限のマナーや 節制を覚えてもらう必要があります。これらの会得の中で避けられないのが、子どもとの多少の衝突です。
例えば、机の上に足を置かない 食事中に走り回らない 欲しいものを得るために、無様に騒がない といった、社会で生きていくための最低限の要素の指導を想定します。子どもが上記の行動をした時、親は少なくとも子どもの行動の変容を促す何らかの行為(=次から指摘、と呼びます)をする必要があります。この指摘によって子どもは機嫌を損ねる結果に繋がることもありますが、子どもと真摯に対話し社会性の会得を目指すならば 指摘は避けて通れないものであるはずです。
この指摘を行うことで子どもの気分は下がることもあります。一方で、子どもの喜ぶことを親が行うことで子どもの気分が上がることもあります。この気分の上下の小さいサイクルを回す中で、家庭という小さい共同体の中で他者との関わり方、ルールと自分の主張のバランス感を取っていけたらいいのかなと考えています。このニュアンスは、親が子どもをコントロールするというよりも コミュニケーションの中で自身を含む共同体メンバー各位への理解を深めるという方向性で活発に喋る感じで行くのがいいのかな〜なんて思ってます。子どもは親をよく見ていて、親を喜ばせるように動いてみたり、一方で親を試すような言動をしてみたり そういった成長は面白く、こちらも子どもに底を見透かされないように一挙手一投足の振る舞いから日々見直しながら生活しています。
我が家でのケース
話を戻します。
我が家では、子どもの行動に対し妻が指摘を行うことが最頻のパターンです。妻は芯の強い女性で、3歳の娘の一丁前の主張と言論の弾幕による挑戦を真っ向から受けとめ積極的に戦うため、議論が並行した際は僕が仲裁に入ります。
おそらく、娘の中には他者への累積評価ポイントのようなものが存在します。この時指摘を行った妻のポイントは下がり、仲裁した僕のポイントは上がります。当たり前ですがこのパターンを繰り返す限り僕のポイントは上がり続け、妻のポイントは下がり続けます。同じ空間内では、このポイントのランキングが高い方に寄り付く傾向があります。(ちなみに一番高いのは母方祖母です)
あまり極端に僕がポイントを稼ぎ続けるのも家庭内で健康的でないと感じたため、僕が指摘するときはかなり強く叱るように態度を変えたところ ポイントが急落し先日の「パパのこと嫌い」を引き出すこととなりました。
この発言に関しては妻にばかり悪い役目を背負わせてしまった負目もあり、むしろ言われて良かったなと思っています。下がったポイントを回復するために、娘をよく見て、喜びそうなことを考えて行動するというのも面白いものです。
今日のこと
今日は、娘と2人でイオンに行ってビーズの詰め合わせを作り、義実家に帰って2人でアクセサリーを作りました。
3時間ほどぶっ通しで色々作りました。娘はパズルが好きで、集中ができることは分かってましたが、手先の器用さが大きく成長していて驚きました。この間まで娘は細かい作業自体を好んでいなかったような気がするのに、いつのまにやら。
娘は今もアクセサリー付けたまま寝ていて 楽しそうで良かった 僕も楽しかった
ちなみに僕の学び、気づきとしては
さまざまな形や色のビーズから好きなものを選び組み合わせる中で、形の統一性よりも色の統一性を優先した方がいいものができるような気がするということです。
上の写真は、形の統一性を優先したブレスレットです。色の統一性を優先した方は今も娘が付けて寝てるので、写真は割愛させていただきます。