身辺雑記、背番号「10」
最近、中学校時代に所属していた野球部の同級生が結婚するという幸せな知らせを聞いたことをキッカケにして、2トンの漬物石で蓋をしていたはずの臭くて苦い当時の記憶がゾンビのごとく蘇ってきたので熱いうちに皆さんに共有したい。
また、深く考えずの大量の殴り書きになるので、じゃがりこでも食べながら読むか、眠たい目にヤスリがけでもしながら読んでいただきたい。
まず、私が地元の公立中学校の野球部に入った経緯としては、3個上の兄が入っていたことと、小学校の頃所属していた弱小ソフトボール少年団のメンバーの半数がそのまま野球部に所属するから、という脳死2点セットである。
結論から言うと、野球部に入った瞬間、死ぬほど後悔した。
私が入学した年に顧問になった先生が超スパルタだった。経歴は柔道でオリンピック候補だったとかそうでないとか、というレベルでスーパーエリートスパルタ体育教師だった。柔道と野球部の厳しさを掛け合わせて凝縮したスパルタの一番搾り、体育会の濃縮還元だった。
最初の記事で書いた通り、私は根本的に弱い人間であったし、小学生の時点でその自覚だけは強かったので、本当は野球部ではなく吹奏楽などの文化系の部活動や、せめて卓球部に入りたかった。(最低な偏見です、すみません)
あと、ゲームが好きだったのでゲームライフバランスがきっちり取れる部活がよかった。そう思っていたのは本音であり、実際に上記の2つの部活見学も行った。だが、なぜか野球部に入ったのである。なぜかについては思い出したくてもなぜか思い出せない、体育会系すぎて忘れた。どうやらヘッドスライディングすると記憶が削れてなくなるらしい。
〜花の1年生〜
野球部、ひいては部活動全般における1年生は大変だ。なぜなら6年間ぬるま湯に浸かっていた心身ともに、上下関係という名の釜茹で地獄に放り込まれるからだ。しかし、意外と私はそうでもなかった。
理由は大きく2つある。1つ目は最初の方に記述した兄の存在であった。実際に兄とは所属している期間が重なることはなかったのだが、2・3年生は兄直系の後輩であったからだ。しかも、兄は私と対照的な性格であり、ヤンチャでパワフルなタイプだった。そんな先輩の弟だから私はスタート時点で下駄を履かせられた状態で入部できた。実際はボロボロのスパイクではあるが。
2つ目は、1年生時はそこまで野球自体が上手くなくてもなんとかなる、という事だ。そう思っていたのは私だけかもしれないが。
極端に人数の少ないチームを除いて、基本的に1年生にはレギュラー争いという言葉は無縁である。ガンジーの生まれ変わりである争いごとが嫌いな私にはその状況というのは室温23度・湿度55%くらい快適だった。(そもそもそんなこと考えている時点で上手くなるはずがない)
結果としては15人ほどいた1年生の中で5人ほどしか入れない枠のベンチ入りができた。この事実だけ見ると、裏切りやがったなこのペテン師!ちゃんと結果出してんじゃねえかよクソが!そんな声をあげている読者の方もいらっしゃるであろう。だが安心してほしい、この事についてはきちんと種明かしをしよう。
ふつうの公立中学校野球部1年生というのは、そのチーム状況にもよるが、基本的に野球の上手さだけで評価されるということはなく、どれだけ声を出したか、雑用をやったかなどの観点からも評価される。と私は思っている。察しがいい皆さんならもうおわかりかもしれない。そう、私は声の大きさと雑用でベンチ入りした人間なのである。これで私が諸君を裏切ったわけではないと安心して貰えただろうか。ご安心いただけたならそれこそが私の一番の喜びである。
〜曇天の2年生〜
題名のとおり、ここから一気に低気圧の空模様が訪れる。人生楽あれば苦あり、人生山あり谷あり、などと考えたやつの思惑通りすぎて思い出してて腹が立つ。
私の所属していた野球部は、1個上の3年生の人数が少なく、2年生でも半分くらいが試合に出るレギュラーメンバーになれるので、このあたりから運動部特有の同学年内の序列が露呈し始める。つまり、私のハッタリがここまでしか通用しなくなったと同義と考えてもらって構わない。
私はもちろん下手だったのでレギュラーになんてなれるはずもなく、おまけにキツイ練習に耐えられず足を疲労骨折したり手の指を骨折したりと、ホラーマンばりのスピードで怪我をしていたので、声の大きさと雑用といったザコ初期装備ではカバーできないレベルの状況になっていった。
序列がはっきりし始めると、部活の前に道具の準備やグランドの準備をせずに先輩と遊ぶことができるレギュラー貴族階級の部員とそうでない労働者階級の部員とが分かれるなど、悲惨な状況にもなる。思春期の体育会系は良くも悪くも弱肉強食および産業革命の社会なのだ。
おまけに、同学年のメンバーは大きく分けて地元にある強豪小学生野球クラブ2つと私の所属してた弱小ソフトボール少年団1つを合わせた3つのクラブ出身から均等にそれぞれ5人くらいから構成されており、2年時に3年生と試合に出るのはもちろん野球クラブ2つの出身メンバーであった。
すごい事に、この2年時の時にチームが県大会3位までの結果になった。これはとてもすごい事であり、なぜなら1位2位が推薦や静岡県全体から生徒を集めている強豪私立中学校であった事実からもわかるだろう。高校以降に出会った人間と中学時代の部活の話になった時、私はこの実績を我が物顔で言っている。もちろん試合にすら出てないが。
表面上、試合中ベンチからめちゃくちゃ声を出して勝った時も喜んでいる感じを出していたが、正直試合に出ていないからどうでもいいし早く帰って寝たいとおもっていた。おそらく、表面的に私のやる気を凄まじく感じ取っていた当時のチームメイトからすると、この本音を知ったらホラーであろう。
〜無の境地3年生〜
ひとつ上の代が功績をあげて引退したものだから、より一層部活がきつくなった。いや、もしかしたら自分が下手でろくに試合にも出られないと思っているから精神的にやる気も失せてきつく感じたのか、今でもどっちかわからない。
当時、帰宅後に自主練習でやった素振りの回数を書いて昼休みに顧問の先生に提出する、という決まりと野球ノートという試合ごとの反省を書いて提出する決まりがあった。
墓場まで持って行こうか迷った事実ではあるが、私はほとんど家で素振りをせずゲームばかりしていた。のにもかかわらず毎日300回くらいやってるテイにして提出していた。先生は毎回その提出のタイミングで部員の手のひらにできた豆をチェックするのだが、私の手のひらという名の畑には豆は一粒もなっておらず、先生は不思議がっていた。他の部員は日に日に手にひらがボロボロになっていくのに、私だけは手のひらが綺麗になっていった。俗に言う野球ベンジャミンバトンである。その時から自分のことを豆ができにくい体質だと思う事にした。今でもそう思っている。だからその代わりに納豆をたくさんたべている。
また、野球ノートであるが、文章を考えるのは好きだったので、意外とちゃんとドラマチックに書いていた。やる気ある部員を演じていたので、この薄桃色A4サイズキャンパスノートの表紙に私だけ「全力」とデカく汚い字で書いていた。何が全力だよ。この「全力」の事実は自分の隠部を一時間くらい凝視されるより恥ずかしい。
もうわかると思うが3年生になってもレギュラーにはなれなかった。当然の結果だ。私は下手な上に努力もろくにしなかった。最初は下手でも上手くなった同学年もいた。少なからずそいつは不器用なりに努力していた。
私は声出しや練習中はそれなりに取り組んでいたので、ずっと
公立野球部の「がんばったで賞」である背番号「10」だった。
準公式戦のような試合で背番号一桁をもらったことはあっても、公式戦では貰えなかった、今思えばおそらく先生には全部見透かされていたのかもしれない。わたしが先生の立場だったらこういうやつが明らかな問題児より6乗くらい扱いにくい。
今でもこの1年間の自分が人生で一番ダサかった気がする。余談にはなるが、努力してないくせに背番号二桁が恥ずかしくて、暑い日でもユニフォームの上にウィンドブレーカーを着ていた。しかも、それを勘のいいチームメイトにバレて指摘されて余計ダサかった。ダサさが2乗していたので、実質背番号「100」だった。この事実は隠部を二時間くらい凝視されるより恥ずかしい。
〜総括〜
散々な3年間だった様な書き方をしたが、野球部に入って3年間を過ごしたこと自体を後悔しかしていないか、と言われればそんなこともない。
同学年のメンバーは結構いいメンバーで優しいヤツが多かった気がする。
正直、レギュラーで試合に出て主体的にならないと何事も面白くないと思うってこともわかった。(だから私は、試合に出れなくてもナンチャラかんちゃら・・・っていう美談はあまり好きではない。)それが高校でハンドボールを楽しめる経験に繋がった。あと、自分の得意なフィールドで戦うことの大切さも実感した。思春期の頃にゆとり教育だけでなく弱肉強食の社会を実感できたのも自分の財産になったかなって思ってます。
最後に、、
先生、ずっとやる気ある感じ出しててすんませんしたっ!!!全力ぅ!!