ぼくの青春は「ホームページビルダー」だった【大塚たくまのこれまで #03】
こんにちは。Webライターをやっております、大塚たくまと申します。フリーライター業が大きくなりまして、株式会社なかみという会社を経営し、Webコンテンツの制作を行なっています。
2024年8月24日、ぼくは37歳になりました。そんなタイミングで、ちょっとこれまでの道のりについて、書き綴ってみたくなりました。
これまで、ライターとして他人の物語を書くのが仕事でした。はじめて、自分の物語を書いてみます。
1999年4月、パソコンが我が家にやってきた
1999年、ぼくは小学6年生になりました。ある日、母が何やら大きな荷物を抱えて帰ってきました。「衝動買いしちゃった」と言っていたのを覚えています。
母は近所にあったパソコンショップ「アプライド」で、中古パソコンを買ってきたのです。14万円くらいする、Windows95を備えた「サテライトプロ」という、東芝のノートパソコンでした。
ぼくは新しいおもちゃを得たかのように、パソコンに触りまくりました。学級新聞をつくる係だったので、これまで手書きだった学級新聞をExcel(なぜかWordではなくExcel)でつくるようになりました。ワードアートの機能が楽しかったのを覚えています。
6年1組の「新聞係」は、一応班で割り当てられていましたが、ぼくのワンマンでした。
学級新聞で「少数派を当てろ!」というコーナーをやっていたのを覚えています。たとえば「ポケモンといえば?」というアンケートをクラスで実施し、「ピカチュウ」と「ミュウ」という答えを準備し、少数派を答えた人が正解という企画です。その少数派の割合を示すために、Excelのグラフ機能を使って、円グラフを作っていました。
基本的にソフトはWordとExcelとペイントくらいしか使えるものはなかったので、よく電気屋さんで配布しているCD-ROMを探していました。
「DION」や「ODN」などが配布している、プロバイダとの契約を促進するCD-ROMには、ミニゲームが付属していることがあったのです。それで何度も遊んでいました。
我が家にインターネットがやってきた
そんなCD-ROMの影響もあり、我が家は「DION」に契約し、東芝サテライトプロはインターネットに接続されました。今ではあまり想像つかないかもしれませんが、当時のインターネットはダイヤルアップ接続です。
固定電話機がつながっている電話回線を引っこ抜いて、パソコンと電話回線を繋げ、アクセスポイントと呼ばれる接続用電話番号にダイヤルして接続します。
インターネットでWebサイトを見る時は、基本的にダウンロードしてオフラインで閲覧していました。なぜなら、オンラインで閲覧すると、その間は電話と同じ通話料がかかるからです。もっとインターネットを楽しみたくなった大塚家は「テレホーダイ」に加入します。
23時から翌朝8時まで、指定した電話番号が定額になります。そのため、アクセスポイントの電話番号を指定して、夜な夜なインターネットをやるのです。ぼくは、このテレホーダイが始まったことで「チャット」にハマり始めます。
福岡ダイエーホークスの公式サイトにあったチャット「鷹々談々」。名前が凝っていて「タカタカダンダン」なんで、太鼓のロゴになっています。これがぼくのインターネットの原体験なのです。
CGIスクリプトのチャットで「F5」でリロードしながら会話していきます。これがもう楽しくて仕方がなかった。ダイエーホークスという共通項で、いろんな知らないどこかの人と会話を楽しみました。
「まつぼっくり」というハンドルネームの女子大生ダイエーファンと仲良くなり、彼女のマンドリンサークルの定期演奏会を見に行ったことを覚えています。挨拶するつもりだったのに、ぼくは恥ずかしくなって、挨拶をせずに逃げ出してしまいました。苦い思い出です。まだインターネットとリアルが繋がることに、大きな抵抗がありましたね。
ぼくは、このチャット鷹々談々で「王塚貞治」と名乗り、小学生のくせに夜な夜なインターネットを続けたのです。
我が家に「ホームページビルダー2000」がやってきた
どうしてもネットROMっていると、自分でWebサイトを開きたくなってくるというもの。母は「MIDI」(Musical Instrument Digital Interface)にハマり、パソコンを使って、自分でオルゴールの音源を作るようになりました。
その音源を公開するために、Webサイトを自作したいと思った母は「ホームページビルダー2000」を買ってきたのです。そして無事にWebサイトを公開しました。
それを見ていた小6のぼくも、Webサイト制作をやりたくなりました。鷹々談々で仲良くなった人たちを迎え入れるサイトが欲しい。ぼくは「ホームページビルダー2000」の説明書を読み込み、無事に自力で「Hawks応援共和国」と名付けた変てこなサイトをオープンさせたのでした。
WayBackMachineに小6の頃のWebサイトの痕跡が残されていました。ちゃんと「あの頃」のWebサイトで泣けます。ぼくは、この「Hawks応援共和国」を大切に育て始めます。
2000年の中1の頃、ダイエーホークスの藤井将雄投手が亡くなりました。ぼくは「藤井投手よ永遠に」という特設ページをつくったところ、このページで実施した「藤井投手へのメッセージ募集」のコーナーがバズりました。
メッセージを集め、それらをプリントアウトして球団に送ると言ったところ、続々とメッセージが届きました。集まれば集まるほど使命感が湧き、なんとか全て自宅のプリンタでプリントアウトして、球団宛に郵送しました。
「インターネットを通じ、誰かの思いを届けられる」と実感した出来事でした。
2chで自分のスレが立って背筋が凍る
2002年、ぼくがWebサイトにアクセス解析をつけた日に、急に大量のアクセスが「Hawks応援共和国」に発生しました。何かと思ってリンク元を見てみると「http://sports.2ch.net/」の文字。ほとんどのアクセスが2ちゃんねるの「アンチ球団板」からだったのです。
おそるおそるリンクをクリックしてみると、「偉大なホークスファソ中学生・王塚貞治君を語ろう!」と書かれたスレッドが出てきました。既に300を超えるレスがついています。
「王塚逝ってよし」という言葉に溢れるそのスレッドは、ぼくが「チャット鷹々談々」で話した内容のコピペや、さまざまなサイトの掲示板に書き込んだ内容のコピペが貼られ「何言ってんだこいつ」みたいな感じの嘲笑コメントが大量に書き込まれていました。
当時のぼくにも、反感を買われても仕方がないような、悪いところはありました。中学校に馴染めずにフラストレーションが溜まった僕は、インターネットに没頭。福岡ダイエーホークスの公式掲示板の「ファンズオピニオン」で、大人相手に議論をふっかけては白熱議論に熱中。充実していないリアルでの不満を、匿名をいいことに、インターネットにぶつけていたのだと思います。
そのスレッドはぐんぐん伸び、レスは1000を突破。「パート2」と銘打った2スレ目が生まれることになりました。初めて体験した「炎上」と言ってもいいかもしれません。
スレッドには「王塚貞治」と名乗って、ぼくの口調を真似て書き込む人も現れて、かなり悪質でした。見守ることしかできず、歯痒かったですね。
この経験で、ぼくは「インターネットは賛同を得るのと同時に、反感を買う」ということを学びました。日頃、サイトには「ファン」と呼んでもいいような、更新を楽しみにしてくれる常連さんがたくさんいたんです。それと同じくらい「アンチ」と呼んでいいような方々も2chにたくさんいました。彼らはぼくの揚げ足をとって転ばせ、転んだ瞬間に集まってきて、ギッタギタに踏み潰そうとしてきました。……今のネットとあまり変わらないですね。
ぼくは中学校を帰宅部で卒業。インターネットと受験勉強だけの、空虚な3年間でした。学校での思い出はありません。
自分だからこそできるインターネットを探す
ぼくは2chでの総叩きを経験した後、インターネットでの立ち振る舞いを反省しました。匿名だし、誰も別に自分のことなんて見ていないと思っていたところがあったのです。
しかし、2chを見て、一人の人間として「王塚貞治」を追って見ている人が思いのほか、人数が多いと感じました。そこで、もっとポジティブにアイデンティティを表現していこうと思うようになりました。
もっと面白いホークスファンサイトにしたい。そこで、ホークス情報をコツコツ更新するのをやめました。ホークス情報なら「Yahoo!」を見れば早いからです。そうではなく、ホークスファンだけに通じる「身内ネタ」のジョークを頑張ることにしました。
たとえば「We Love Zuleta!」というコーナーを作りました。
これは「ズレータを応援する個人サイトがあったとしたら」という設定で作った、ズレータを好きすぎるファンサイトです。助っ人外国人選手にここまで肩入れして応援するスタンスは珍しく、当時はかなり楽しんでもらえました。その結果、ホークスが勝利した日よりも、ズレータがホームランを打った日の方が、アクセスが集中するようになりました。
そして「宗燐徹底応援会」。
これも「もしも川﨑宗則を硬派に応援する団体のサイトがあったら」という設定で作った、架空の団体の公式サイトという設定です。実際にあった右翼団体のWebサイトを参考に作りました。このページを開くと、月替わりで気に入った軍歌のMIDIを流していました。
「宗燐徹底応援会」は、人気コンテンツとなり「宗リンではなく、宗燐と呼べ!」という意味のわからない架空団体の主張を面白がってくれる人は徐々に増えていきました。
ある日、プロ野球中継を見ていると、外野席で「宗燐」とプラカードを出している人を見かけたときは、ものすごく喜んだものです。
ただし、サイト内でもっとも人気があったのは「日記」のコンテンツでした。ぼくの学校生活を綴った、エッセイのようなものです。
1個だけエピソードを覚えています。夫婦喧嘩中だった女性の常連さんが、実は夫もうちのサイトの常連だったとわかったというのです。このサイトの話で盛り上がって夫婦喧嘩が終わったということで、感謝のメッセージをいただいたことがありました。
「おもしろいコンテンツを追求すれば、ちゃんと人に届くんだ」と実感した出来事でした。ぼくはもっともっと、インターネットにハマっていきます。
ウェブサイトのことで西日本新聞に取材を受ける
ある日、メールを開くと西日本新聞社の記者の方からメールが届いていました。
「いろんな場所から日本シリーズのホークスを見つめている人のドキュメント企画をやっている。インターネットから見つめている人の代表として、取材を受けてほしい。」
ぼくは天にも舞うような心持ちでした。ついに自分がやってきたことを公に認めてもらえたような、そんな気持ちだったんです。新聞記者の方は自宅まできてくれて、リビングでしっかりぼくの話を聞いてくれました。
できあがった新聞記事は思いの外大きく、ぼくの写真がデカデカとカラーで掲載されており、とっても驚いたものでした。掲載されていたのは「社会面」だったことにもなんだかびっくり。社会て。
「今年はホームチームシリーズ」という僕の予言は見事当たり、本当にこの年のダイエーホークスは地元で逆襲を果たして日本一に輝きました。
新聞掲載の影響は大きく、この新聞が出た翌日、すぐに高校の先生に「お前、新聞に出とったやろうが。部活もしないで、あんなことしよるんか」と声をかけられました。さらに後ろの席のクラスメイトから「大塚、新聞見たぞ」とひそひそ話で教えてくれました。新聞ってすごい。
青春時代を犠牲にインターネットに没頭する僕は、親戚中に不安を与えていました。そんな中、この新聞記事には家族も親族も喜んでくれたと思います。「たくまがやってることは、本当にすごいんだ」と思ってもらえたような気がしました。新聞ってすごい。
この新聞取材の経験は、ぼくのインターネット活動において、大きな自信になりました。「インターネットは、面白いことを続けていれば、ちゃんと見つけてもらえる」と思ったものです。
中学に続き、高校もインターネットとささやかな受験勉強に費やした僕。部活もせず、友達もできませんでした。それでも、インターネットは面白かった。インターネットがなかったら、ぼくの中学・高校時代は生き地獄だったと思います。
ぼくはインターネットに救われました。もっというと、ホームページビルダーに、青春時代を救ってもらったのです。
今日の一曲/いざゆけ若鷹軍団
「ダイヤモンドの鷹」と迷ったが、やっぱりこれで。このバージョンを聞くと、福岡ドームの「HARRY'S」のネオンや、ドーム内の「THE BIG LIFE」のネオンなんかを思い出す。Vメガホンとか、カラフルなジェット風船。