冷たく、厳しく、突き放す優しさ
今回は「優しさと甘さ」について考えてみようと思います。
最後までお付き合いいただけると幸いです。
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【優しさ】
心温かく、思いやりがあること。または、おだやかでおとなしいこと。
(実用日本語表現辞典より)
優しさという言葉は、私たちの日常でよく使われる言葉であり、その言葉に秘められているのは、人の尊厳を守る気概や相手を思いやる心というものだと思われます。
優しさの定義を言葉にすれば、誰もが納得のいく言葉が浮かんでくるのでしょうが、実際に実践するとなると、難しいケースもあるように思います。
例えば、子供に対して、何か出来ないことに挑戦させるためには、ある程度の厳しさも求められると思います。
ですが、その子が自信を失っていたり、今は突き放すべきではないと判断した場合に、こちら側から行動を抑制し、一時的とはいえ「諦めさせる」という決断を促すことも優しさかもしれません。
この例えは非常に難しい判断が含まれており、挑戦を中止させたことによって、その子に再び挑戦する機会を与えたと考えることもできますが、一方で、自分はできなかったと自信を奪ってしまったり、やらなくてもいいんだという甘えがそこに出てきてしまったり…というケースも考えられます。
優しさを逃げる口実にしてしまってはいけません。
私たちは常に「優しさとは何か?」というものを短期的な視点だけではなく長期的に見据え、考えなければならないのではないでしょうか?
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そう考えると、一概にその場で相手を許す行為というのは、ときに「優しさ」ではなく「甘さ」からの行動であることも多々あり、それは相手に対しての甘さではなく、その行為を長期的に支援することを自ら諦めてしまった自分自身に対する甘えかもしれません。
優しさという言葉を考えるときには、短期的・長期的あるいは、誰の視点からどのように見えるのか、というような「複眼的な思考」が求められるように感じます。
「優しい人間」というのは「甘い人間」であってはならないと私は考えています。
優しさとは、あからさまに他人が判断できる特性ではないのではないでしょうか?
会社などで、冷たくあしらわれたり厳しく叱責を受けるといったケースはハラスメントという言葉のもと、徐々になくなってきていると思います。
言葉のニュアンスのみにとらわれ、相手の本質を考えることなく、全てをハラスメントの一言で片付けてしまっては、優しさと甘さを混同してしまい、成長をする機会を自ら断ってしまうこともあるのではないでしょうか。
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とはいえ、言葉を発する上で、言葉によるハラスメントなのか相手のことを想っての言葉なのかというのは、聴き手にとって判断しがたいものかもしれません。
大切なのは「優しい自分」に酔わないことです。
優しさとは、「相手のためにどうあるべきか」というものを考える心だと思われます。
間違っても甘さであってはならないので、冷たく厳しく当たることも当然にあり得ることだと思われます。
今の世の中は、様々な自由を保証する代わりに、様々な制約のタガが外れているように感じます。
結果として、「人権」という名のもとに「間違った自由」が横行しやすい社会になっているという恐れがあるのではないでしょうか?
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優しさと甘さを履き違えないために、私たちの行動と想いが、常に試されていることを決して忘れずに生きる必要があると私は考えています。
あなたは、どうお考えでしょうか?
ということで、最後までお読みいただきありがとうございました。
今回の投稿は以上です。