世に伯楽有りて、然る後に千里の馬有り
私たちは、どんな暮らしをしていても、どんな立場に立っていても、「他者」という自分とは違う存在との間で共存しています。
まずは、今回の表題の意味を共有しましょう。
…さて、引用した解説を読んで、意味を理解されたと思うのですが、解説文に気になる点は無いでしょうか?
人によって、着眼点は異なるでしょうし、明確な正解も不正解もないと思うのですが、私は後段の「上に立つ人は~」に違和感を覚えます。
先述の通り、私たちは自分以外の存在と共生しています。
例えば、ご自宅に引きこもり、外界と隔絶した世界に住んでいると思っていても、誰かの生産したモノを消費して生きていますし、先人たちの築いた文化の上に暮らしています。
他者との関係性を断絶するなど、現代においては不可能ですし、このnoteを目にされていること自体、他者とのつながりと言えるでしょう。
そんな現代において、「人の見る目を養う」ことは、「上に立つ人」だけの行為なのでしょうか?
私は違うと思います。
また、「有能な人」の比喩として「名馬」という言葉が用いられていますが、「有能な人」とは、どのような人を指すのでしょうか?
一般的に「人財」という言葉が用いられやすいビジネスの世界においても、「有能な人」というのは千差万別です。
それは、有能かどうかは、企業が抱えている課題によって定義が変わるからです。
単純に、知識があることや技能が卓越していることが有能の象徴ではないのではないでしょうか。
一例として、現代ではコミュニケーション「能力」という言葉があります。
元来、コミュニケーションとは、意思疎通のための手段です。
ですが、そのコミュニケーションを円滑にするための個性や性格を備えている人財の能力のことをコミュニケーション「能力」と指しているのだと思うのです。
では、「有能な」「コミュニケーション能力」とは何でしょうか?
これは、企業が何を求めているのかによって、大きく変化します。
突き詰めれば、私たちはニーズに合致すれば、誰もが「有能な人財」足り得るということだと私は考えています。
また、先に述べた「伯楽」の定義への違和感である「上に立つ人」という言葉。
今、多くの人が人間関係に疲弊し、懐疑的な想いを抱えて生きるようになっており、その想いにも疲弊するという負のループが生じています。
周囲の人間関係において、円滑な関係性を構築するのに必要なのは「有能な人」だけではありません。
具体的に述べれば、どれだけ私たちが自身のコミュニケーション能力を磨こうとも、周囲の人間との間に不和が生じることは往々にしてあるものです。
であるならば、私たちは「有能な人財=名馬」であると同時に「人の見る目を養う=伯楽」でなければならないと思うのです。
一方で、名馬としてのスキルを磨くことはあっても、伯楽としてのスキルを磨く人は、まだまだ少数ではないでしょうか。
伯楽としてのスキルの未熟さが、私たちの周りで起こっている人間関係の不和や齟齬のもととなっているのであれば、一つの能力を磨くことだけが正解ではないと思うのですが、あなたはどのように感じられるでしょうか?
ということで、最後までお読みいただきありがとうございました。
今回の投稿は以上です。