投げられた賽を、擦り傷作りながらもダイビングキャッチして、自分で振り直してみたという話。
人の可能性というのは、年齢とともに幅が狭くなるものではないでしょうか?
それは、良い意味でも、悪い意味でも…。
自分一人の可能性を追い求めていくうちに、愛する人と出会い、その人と二人で可能性を探す道を選んだり、一方で、自分を信じることができず、諦めと妥協を繰り返す中で、可能性の芽を摘んでしまったり…。
すべては自分次第であるのに、「運命に翻弄された」などと都合の良い言葉に責任転嫁…したくなる気持ちは分かります(>_<)。
なぜなら、私自身がそんな人間だったから。
「だった」なんて言っていますが、今もちょっとしたきっかけで、戻ってしまうかもしれません。
人は、そんな簡単には変われないものです。本質的な部分は、一生変わりません。だから、「継続力」が必要なんだと思います。研鑽を怠った瞬間に、あっという間に谷底に転げ落ちていくのが、人生の怖いところです。
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「賽は投げられた」
ユリウス・カエサルがルビコン川を通過する際に発したとされる言葉で、「運命に向かってコトは進み始めたのであり、後退はできない」という意味…だったと思いますが、気になる方はググってみてください(笑)。
「投げられた」というフレーズには、「自分ではなく、何かの大きな力が働いた結果」というニュアンスを、個人的には感じます。
つまり、賽を投げたのは、自分ではなく「神」とか「運命」といった「ヒトならざるモノ」だということです。
なるほど、それならば、人に抗う術はなく、従うしかない…。
私は、これに異を唱えたいと考えます。
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賽は自分で投げよう!
あなたの人生は、誰のものですか?あなた自身のものですよね?
それならば、自分で進みたい方向に進んじゃいましょうよ(*'ω'*)。
自分で進みたい方向を決めるということは、誰でもない、あなた自身が責任を負うということです。
「責任…そういう言葉は背負いたくない(;´・ω・)。」
まあ、それはそうですよね(/・ω・)/。
ですが、責任を背負う覚悟がないのなら、自由を求めることはできないと、私は思います。
自由とは「他からの束縛を受けず、自分の思うままにふるまえること」です。
「思うまま」って、心地よい響きに聞こえるかもしれませんが、結構シビアです。
世の中って、結局のところ、そんなに甘くないんです。
「…えー(;´・ω・)」とか思うかもしれませんが、それを楽しめる人が、ホントの意味で、自由を謳歌するってことなんだと思います。
なんでも、良い面だけ見がちですが、楽な道ほど、ちょっとのことで辛くなります。反対に、苦しい道ほど、ちょっとしたことに喜びを感じるでしょう。
…ね?生きるって面倒で、だからこそ、面白いです。
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タイトル回収(笑)。
気持ち的には壮大ですが、実際は、なんてことはないのですが、ほぼノープランで、会社に退職の意思を伝えました(笑)。
「このままでいいのか?」という想いを抱えたままは生きられないので、「アンチ・安定した生活(仮)」に向けて、自分で賽を投げてみたってところで、今回の投稿は以上です。
(・ω・)…先が全く読めない感じが、面白い。