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やさしさは近い未来の支援、きびしさは遠い未来の支援
ちょっと仕事の話となります。
障がい者福祉で働いていると、障がいの特性によって寄り添う支援だけでなく、ときに凛とした態度できびしく突き放すことも必要となります。
障がい者に対する支援には、「障害者虐待防止法」で規定されているように、あるいは「障害者差別解消法」で定められているように、障がい者の人権を侵害してはならないとする、当然の義務があります。
しかし、私たちの中に「障がい者と健常者」という心理的な障壁がある限り、この当然の義務は解消されずにいることとなります。
障がいを抱える方への支援によっては、過保護となり誤学習という間違った常識を植えこんでしまうことがあります。
「障がいがあるのだから、護られるべき」
こんなことを考えてしまうと、「過保護」という差別解消とは程遠く。
「障がいがあっても、差別はしない」
このような考えのもと、虐待とも捉われかねない支援に行き着いてしまう。
はたして合理的配慮とは、どうすればよいのか?
与えるべきを与える。
考え過ぎては、迷走してしまう。
この難しさと対峙し続けるのが、支援の本質だと思います。
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優しさと厳しさは、どちらかだけでは足りません。
どちらもあって、はじめて両輪が回るのです。
なぜなら、やさしさは近い未来の支援、きびしさは遠い未来の支援だからです。
目の前の課題に気付き、乗り越える勇気を障がいを抱える方は持ち合わせています。
それを信じ、ともに転ぶことも持さない勇気を、支援者は持つべきだと思うのです。
長期的な視点を、障がいを抱える方は苦手としています。
ですから、どうしても短絡的だと採られてしまうこともあるでしょう。
課題をともに乗り越えた支援者に甘えを抱くこともあるでしょう。
そこで求められるのは、厳しさです。
それは感情的なものではなく、障がいを抱える方の代わりに先を見据えるからこそ、しなければならない支援です。
優しさの支援は、支援初期から取り組みやすいものですが、厳しさを含む支援は、支援者も痛みを伴うモノです。
共に歩む限り、痛みは避けられません。
キレイごとで、人は支えられません。
その事実と、どう向き合うのか?
それが障がい者支援の取っ掛かりだと、私は思います。
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ということで、最後までお読みいただきありがとうございました。
今回の投稿は以上です。