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「後悔のない人生を…」はキレイごとに過ぎないし、ペラッペラな人生でしかない。
「後悔のない人生を…」
確かに、キレイで美しい人生を連想させる言葉ではあります。
私も若い頃は憧れましたし、ツライ出来事があっても、受け容れて新しいスタートを切るために、自らに言い聞かせたこともありました。
しかし、言葉に引っ張られ「言い聞かせる」こと自体が、消化しきれていない証拠だと考えるようになっていきました。
生きることは苦難の連続です。
後悔とは、起こらないようにすることが素晴らしいのではなく、気持ちに折り合いをつけて遣り過ごすことを良しとするものでもなく、経験し学びとして昇華させることこそが、私たちの人生に厚みを持たせ、深みのある生き方へ誘ってくれるのではないでしょうか?
「後悔を経験して生きていけ‼」
今回は、過去に囚われたり、縛られたり、苦しんだりされた人に、私の個人的な見解をお届けしたいと思います。
最後までお付き合いいただけると幸いです。
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本文の前に、お知らせです。
今回から毎日の投稿を綴じるマガジンを変更します。
これまでは当たり障りのないように、言葉を選び内容を考えて投稿することを心掛けてきましたが、それでは届かない言葉があり、自分であって自分ではない感情を抱くジレンマがありました。
もう少し、とんがって偏って受け入れられないような内容も書いていこうと思います。
そうでなければ、私の記事ではないのだから…。
「誰のための記事なのか?」
あなたが書店で手に取り購入される書籍は、あなたが選んだ本ですか?
それとも、本があなたを選んだのですか?
まるで導かれるように出会うことはあっても、それは、あなたが手に取らなければ起こり得なかったことです。
「読んでください」では読まれないし、届かない。
発信することに、もう少し「体温」を感じられるような記事にしたいので、あなたの持論とぶつかることもあるでしょうが、どうぞよろしくお願い致します。
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【後悔】
自分のしてしまったことを、あとになって失敗であったとくやむこと。
(デジタル大辞泉より)
そもそも、なぜ後悔は、あってはならないことになるのか?
言葉の意味を調べることで明らかになりました。
上記は「後悔」の意味であり、「後で悔やむこと」とあります。
では「悔やむ」とは、どのような意味なのでしょう?
【悔やむ】
失敗したことや、十分にできなかったことなどを、あとから残念に思う。後悔する。
(デジタル大辞泉より)
…お分かりになりますか?
多くの言葉の意味を説く辞書ですら、この二つの言葉をループさせているのです。
つまり、後悔するという言葉自体が、抜け出せない迷路を表現しているということです。
一度でも捕らえられてしまっては、抜け出すことのできない感情。
これが「後悔しない人生を…」という標語を作りあげている根幹だと思うのです。
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先に述べたように、私もこの標語に憧れを抱く時期がありました。
今になって思えば、浅かったのです。
言葉には、その背景に多くの情報が詰まっています。
同じ言葉であっても、受け取る人の年齢や性別、過去の経験などによって、捉え方は違います。
怒られるかもしれませんが、上記の「後悔」と「悔やむ」の関係性から、この連鎖にハマらないようにしよう…と考えるのは、思考が浅いと私は思っています。
「後悔先に立たず」を「後悔のないよう事前に計画を立てよう」などと考えることもどうかと思っています。
「言葉には、その背景に多くの情報が詰まってる」と述べたのには理由があります。
私が考える後悔との向き合い方…「後悔を背負って生きる」とは、おそらく「後悔のない人生を…」と考えて、後悔を避けているうちは考えられない思考でしょうし、だからこそ、そのような生き方はペラッペラだと思うのです。
断言しますが、どんなに計画的に生きようとも、どんな結果も受け入れる覚悟を持とうとも、後悔のない人生などあり得ません。
ですから、「後悔のない人生を…」などとキレイごとを並べるのはやめて、背負ってみてはどうでしょうか?
それでは、私なりの考えを書いてみようと思います。
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子供のころに、段ボールなどで迷路を作った経験はありますか?
その中にビー玉を入れて、スタートからゴールまで転がす遊び、今の若い方には無縁なのかもしれませんが…。
…このようなものですね。
YouTubeで「段ボール迷路」や「ビー玉転がし」で検索しましたが、レベル感が違い過ぎたので、自分で書きました(笑)。
イメージを共有できたものとして先に進みます。
私は冒頭で、後悔のことを「抜け出せない迷路」に例えましたが、上図の迷路が、私のイメージする後悔の図解となります。
一見すると存在するゴールも袋小路となっている状態なので、「G」の文字がなければ、まさに終わりのない迷路が出来上がります。
人の心理は認知的不協和が働くため、どこかで折り合いをつけるという機能が備わっています。
人が自身の認知とは別の矛盾する認知を抱えた状態、またそのときに覚える不快感を表す社会心理学用語。アメリカの心理学者レオン・フェスティンガーによって提唱された。人はこれを解消するために、矛盾する認知の定義を変更したり、過小評価したり、自身の態度や行動を変更すると考えられている。
(Wikipediaより)
ここで言う矛盾とは、「始まりがあれば終わりもある」という固定観念のことです。
図が段ボールで出来た迷路なら、「S=スタート」から最も遠い位置までビー玉を転がすことをゴールだと折り合いをつけることで、この迷路はクリアしたと考えることも出来ますし、そのように折り合いをつけなければ、ストレスの負荷に苛まれます。
ですが、もっと分かりやすい終わらせ方もあるのではないでしょうか?
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私の答えは「ビー玉を迷路から取り出すこと」です。
ビー玉を自分の思考や感情、迷路を後悔の念と再定義して考えてみましょう。
後悔することとは、迷路にビー玉を置く行為であり、迷路を彷徨う状態です。
「後悔のない人生を…」という考え方では、一生「迷路の抜け出し方」という知恵を手にすることは出来ません。
後悔は必ず訪れるのに、それを否定することは私にとってはスタート地点にいることすら自覚できないことと同義です。
また、後悔と単純に向き合っていては、出口のない迷路をグルグルと回った挙句、自分で作りあげたゴール「らしき」地点で折り合いをつけ、「終わったことにする」ことと同義でもあります。
それでは本当の解決ではありません。
そもそも、思考や感情というビー玉が迷路を彷徨うことになるのは何故でしょう?
目が覚めたら、迷路の中だった…ということではないのです。
あなた自身が、自ら作りあげた迷路に、自らの思考や感情を置いたのだという事実に気づけば、そこから取り出せばいいのだという解答に繋がると私は思っています。
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迷路の攻略法は、俯瞰で見ることです。
ビー玉を取り出すというのは、思考や感情を後悔の迷路が俯瞰できる位置に置くことを指します。
後悔に囚われ、彷徨い続けたという経験を得て「出口はなかったのだ」と、俯瞰し認識することは、「後悔に出口はない」と経験することなく見聞きしているだけの状態とは異なります。
そう考えれば、「後悔先に立たず=後悔のないよう事前に計画を立てよう」ではなく、「後悔という経験を経ることで得られる学びは、見聞きして得られるモノではない」となり、後悔を否定する慣用句ではなくなります。
後悔しなければ得られない知恵があり、学びがあります。
それらを背負って生きることは、必ずしも苦しいことばかりではないと思います。
後悔した経験があるからこそ、輝く人生もある。
そう考えると、「後悔のない人生を…」と考えることが、少し人生をつまらないものに狭めているように聴こえませんか?
…もちろん、あくまで私の見解ですが。
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ということで、最後までお読みいただきありがとうございました。
今回の投稿は以上です。