哲学は余暇の後で…
今回は完全に雑記になるので、サクッと読めると思います。
最後までお付き合いいただけると幸いです。
「哲学」って、何だか知的で難しそうなイメージですよね。
ビジネスでは「フィロソフィー」と英語表記して、企業理念や社是をこのように呼ぶ会社もあります。
個人で考える哲学も、会社という法人格が考える哲学も、感がることは同じです。
「人生とは、会社とは、社会とは、世界とは…?」
正解のない問いを考え続けることで、考えたという事実だけが結果となり、そこに意味を見出すのが哲学だと、個人的には考えています。
【哲学】
1 世界・人生などの根本原理を追求する学問。
2 各人の経験に基づく人生観や世界観。また、物事を統一的に把握する理念。
(デジタル大辞泉より抜粋)
…ちょっと意味合い違ったみたいですが(笑)、「私という個は、こう考える」というのもまた、哲学です。
このような禅問答の先に、人は何を視るのでしょうか?
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誤解を恐れずに書くのならば、哲学とは余暇から生まれたと個人的には思っています。
ちょっと考えてほしいのですが、忙しい毎日を送っているときに「自分とは…?」って、考えられないと思うのです。
他に考えなければならないことに思考を奪われていると思うので、ため息をついたり、ボーっとしたりすることは在れども、哲学しようとは思えないのではないでしょうか?
そう考えると、哲学とは余暇があって初めて向き合う学問なのではないか?と思うのです。
この考えは何冊かの哲学書を読んでて感じたことなのですが、根拠を探していたら、面白い情報がありました。
「学校」を表す英語は「school」ですよね?
実は、「school」の語源となるギリシャ語の「schole(スコレー)」は「閑暇(ヒマ)」なのだそう…。
話は逸れますが、人生ある程度生きると、たまにこうして偶然の産物的なつながりに遭遇する頻度は増えると思います。
これは、無意識かつ無自覚にでも、どこかでその情報を仕入れていた過去があるのかもしれません。
休眠していたシナプスが、閃きによって軸索がリンクしたと考えると、私たちの脳内には、インターネット並みに情報が眠っているのではないかと思います。
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ということで、哲学とは、非常に奥深く明敏な学問であるかのように錯覚しがちですが、起源を辿ると自分の想い込みによって作りあげられた虚像と遭遇します。
ですが、逆に考えれば、哲学的な思想から社会を捉える視点も当然に大切であり、それには一定の余暇を持ちなさいと啓示が示されているようにも感じます。
これは、人間の思考の両輪だと思うのです。
瞬間的、今という時間を生きるための思考と、余暇を以って、はるか物事の起源から終焉までを考える思考。
どちらもあることが人間であり、ともになくしてはいけないものだと、改めて感じました。
この投稿も、見方によっては哲学なのかもしれませんね。
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ということで、最後までお読みいただきありがとうございました。
今回の投稿は以上です。