たくさんは要らないけれど…
たくさんは要らないけれど、お金は持っていたい。
たくさんは要らないけれど、仲間に囲まれたい。
たくさんは要らないけれど、名声を得てみたい。
たくさんは要らないけれど、承認されてみたい。
たくさんは要らないけれど、大切な何かを抱えている実感を感じていたい。
…そんな気持ちを、人は欲求と呼びます。
欲求があることは、私にとって大切なことです。
生きてるって感じるから。
ということで、今回は欲求の一面について考えてみたいと思います。
「欲求は悪」だと思う方も、少し足を止めて、最後までお付き合いいただけると幸いです。
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他者を気遣ったり、慈しんだり、何か手助けをさせていただくことって、素晴らしい行為だと、誰もが思うことと思います。
とは言え、実際にはなかなか難しいケースもあると思います。
職場で仕事に追われる同僚のサポートをしてあげたいけど、自分も抱えている仕事が終わらない…。
家族との会話が減っている気がするけれど、今は少しでも生活を安定させるために働く選択しかできない…。
好きな人が欲しいモノをプレゼントしたいけど、他の出費も重なってしまって誕生日に渡せない…。
…誰かに何かを与えたい気持ちは、いつも自分のキャパシティの範囲でしか行えません。
時間がない、お金がない、余裕がない、権力がない、人望がない、知識がない、心の安寧がない…。
何かが足りないことで、自分も苦しいし他者を支えることも出来ないのなら、何かを欲したいと思いませんか?
だからこそ、私は自分の欲求を善悪で判断できないし、手放したり諦めたりできません。
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もし、求めているモノが手に入るなら…
誰かに分け与えられるだけのモノがあるのなら…
このような想いは、私だけが考えているモノではないと思います。
足りないから、分かち合えない。
自分も足りていないのに、誰かに分け与えるような自己犠牲は、きっと自己満足であって幸せをお裾分けしているのではない。
私は過去の教訓から、そう感じています。
誰かを救いたいなら、自分を救うことから…。
だから、たくさんは要らないけれど、誰かを支えられる何らかの力が欲しいと、私は思います。
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ということで、最後までお読みいただきありがとうございました。
今回の投稿は以上です。