今こそ孔子を学ぶといいと思う
・孔子とは紀元前552年ー紀元前479年、中国春秋戦国時代の思想家
・儒教の祖で日本では道徳で馴染み深い
今年は渋沢栄一が大河ドラマになりますが、彼の著書『論語と算盤』も孔子の教えに従って書かれています。
孔子というと日本文化の根幹にありながら、みんなそこまで掘り下げて考えてないんじゃないかと思う。
日本人にとって孔子の思想=儒教は考え方の下敷きで、みんな無意識に孔子の教えをなぞって生きていると思う。
ただ、無意識になぞるのと意識的であるのとでは天と地ほどの差が出てくるわけで、今こそ孔子を学ぶといいと思う。
例えば、『論語』という言葉を聞くとみなさん、どんな印象を持つだろうか?
堅苦しい、戦前日本の教育、権力者にとって都合の良い教本、などあまり良いイメージを持たない人が多いのではないだろうか?
しかし、そもそも孔子という人は政治に対しての志がありながら、政治の腐敗を嫌った反骨の人というのはご存知だろうか?
ここで有名な孔子の言葉を一つ引くと
修身斉家治国平天下
身を修め(まずは自分を成長させることから始めて)
家をなし(その上で家庭を築き、家族を幸せにし)
国を治めれば(同じように国を治めていけば)
天下は平和である
ここで言いたいのは順番で、あくまで国家のことは天下のことの下にあるということだ。しかし、この天下の部分を省略して、国を治める人間が曲解し都合よく統治に使ったがために儒教は今の世には決して良いものとして受け入れられない。
不自由な思想だというイメージがついてしまっている。
しかし、孔子こそは自由な思想家で、そしてこの人類数千年の中でも数少ない精神と知恵のバランスの取れた知の巨人であることは間違いない。
例えば西洋の哲学者で素晴らしい功績を上げた知恵者たちはたくさんいるのだけど、当人たちの性格は破綻していたり生き方についても褒められたものではない者はたくさんいる。
対して孔子の素晴らしいところは何か。
彼は調和というものをその思想の最上位においた。
中庸という言葉でそれは表されている。
中庸の徳たるや、それ至れるかな、民鮮(すく)なきこと久し
中庸とは物事に対して、気分や感情で対応せず、どんな時でも公平公正に対応することを言っていて、人としての最上の状態で調和が取れていることを指している。
平衡という言葉もそうだ。平衡とは釣り合いが取れた状態を指すが、思想や能力などどれについても何か一つが突出して飛び出ている状態を良しとはしない。
例えば飛び抜けて頭が良い人でも性格の悪い人のことをどう感じるだろうか?
あれはよくないことだ、と眉をひそめることだと思う。
夏目漱石も言っている。
智に働けば角が立つ情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だとかくに、人の世は住みにくい。
(この最後の一節が僕の漱石のことが好きな部分で、これこそ平衡感覚ではあるのだけど、長くなるので置くことにする)
これこそ孔子の考え方がどれだけ日本人に浸透しているかの現われだと思う。
しかし、一方でアメリカみたいに才能のある人が突き抜けた方がいい、出る杭を打つような日本の文化は好きじゃない。そういう向きもいるだろう。(ちなみに僕自身そういう出る杭打つ風潮は好きではない)
しかしそれこそ孔子の言葉の一面的な捉え方で、他でも孔子は次のように述べている。
朝(あした)に道をきかば夕(ゆうべ)に死すとも可なり
孔子の言葉の中でも一番好きな言葉の一つでもありますが、これは真理に至る道を知ることができたなら死んでも本望だ、という覚悟の言葉です。
突き抜けていくことを否定するのではなく、誰よりも突き抜けたかった孔子の思いが伝わってきます。
最後に、孔子を学ぶということは孔子の言葉を知っているだけでは意味がありません。そこからどのような解釈をしていくのかを自分なりに得心していかなければならないのです。
すべての学問においてそうなのですが、時に解釈は割れます。儒教の中でも様々な学派が生まれ、それが争いを生み、時に死者が出ることもありました。人間というのは愚かとも言えるでしょう。
しかし、そこで最後に孔子の言葉を添えて本稿を置くことにします。
子曰く、学びて時にこれを習う、説(よろこ)ばしからずや。
友あり、遠方より来(きた)る。また楽しからずや。
学ぶことはなんて喜ばしいことだろう。
そして友と語り明かすことはなんで楽しいことだろう。
真の友とは学んだ先にこそ得られるものである。(了)
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