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本当の相手は「双極症」だった

<本当の相手は双極症だった>

このタイトルを冠する文章はこの3ヶ月どうしても書きたかったのに、どうしても書くことができなかったものだ。

このままでは福永は「パニック障害にて4ヶ月半休んでいること」になってしまうと思ったから。実は特に5月頭以降は双極性障害(双極症・躁うつ病)のうつ症状と闘っている。当社比で、あまりにも永い3ヶ月だった。

今もまだ認知機能が回復したとは到底思えない状態だ。the渦中。
こんな状態で文章を書いても呪詛だらけのものになってしまうかもしれないし、集中力も15分と続かない。おそらく散漫とした文章が出来上がることは目に見えているのだ。

だが、3ヶ月を経て、はじめて、本当にちょっとだけ触りの方だけでも「書いてみたい」と思えた。後述するが、今の福永にとって「〜してみたい」という感情は本当に、本当に…!切実に、稀で、貴重なものとなってしまっている。

だから、少しずつで良い。書き進めてみようと思った。
うつ状態で書く文章を残してみたかったのだ。


<興味の減退、あまりにも強烈な退屈>

6月以降、段々にあらゆることに対する興味・関心・意欲が消え去り、なにしろ面白いという感情が失せてしまった。味のないガムを噛むような毎日。
かつてこの休暇のことを「バカンス」と表現して自分を鼓舞していた。
だが、そんな生やさしいものではなかった。

ギターを弾いてみる。15分もすると体がゾワゾワしてきて、触れなくなる。
ゲームをやってみる。同じ。本を読んでみる。同じ。
ということは。
時間がまるで過ぎない。本当に全く、時間が過ぎてゆかない。
1日が途方もない長さになる、
映画を見てみる。15分も見続けられない….。

この苦しみをうまく言語化するのは難しい。福永は部屋を見回して、何一切やりたいことのないことを確認して、比喩でなく頭を抱えてうずくまった。頭を抱えていても、5分も過ぎてはくれない。
そんな地獄が1日続いて、1週間続いて、1ヶ月続いて、2ヶ月続いた。
何もできないけれど真っ昼間に眠り続けもしない。睡眠にも限度がある。

待ち合わせをして、人を待つ間の5分間の所在なさと、退屈。
喫煙者ならちょっとタバコを吸いたくなるような、無意味な時間。
あれを10倍濃くしたような退屈である。ソワソワゾワゾワとする。
待ち合わせまで5分でなく4ヶ月半待つとしたらどうだろうか。
そして、これから先いったい何ヶ月、何年待つべきなのかわからないままハチ公の前に立ち続けるとしたら。仕事も趣味も、一切できないまま。
それを10倍も濃くしたような退屈、所在なさ、無意味感…と毎日、いや毎秒向き合って座っている、といえば…ほんの少しでも伝わるだろうか。

この症状のことを福永は「強烈な退屈」という表現で医師に伝えてある。
だが医師には「よくわからない」と言われた。
同じ病名の他の患者さんは「〜できない」と表現することが多いらしい。
福永は、できる。できるんだけど、楽しくない。
普通に想像する場合の、楽しくない、なんてもんじゃない。
ハラワタの奥の奥から全くもって楽しさのかけらひとつすら残らず消えてしまったように楽しくない。つまらない。強烈につまらない。
時間が経たない。



時間が経たないと困ることがある。
精神科、特にうつに関する薬というのは、飲んですぐに効果が出るわけではないのだ。最短でも2週間、本当に効いたか効いてないかの正誤判定をするためには8週間を要する。

同じ病気でもその薬が本当にその人に効くかどうかには恐ろしく多様な個人差があるのが精神病の宿命だ。だから、「薬ガチャ」をする必要がある。
ために、どうしたって1種類につき8週間以上の時間をかける必要があるのだ。

でも、8週間どころか、1週間どころか、1日はおろか、1時間を潰すのに福永は頭を抱えている。強烈な退屈。味のないガム、恐ろしい焦り。虚無。


<本当に双極症なのか、という疑問と、所在のなさ>

福永は現在「双極症」と診断されている。
これはひと昔前なら「躁うつ病」と呼ばれていた病気で、いわゆるハイな状態である躁状態と、ロー状態であるうつ状態を繰り返してしまう病気だ。
福永は3月からローの状態であるところのうつ状態に4ヶ月半ほど位置している、というのが医者の診断だ。

いまだに医療でも原因はわかっておらず、とにかく一定数そうなってしまう人がいる、ということだ。

しかし、1回5分の精神科の診療で。本当に福永の正確な病名がわかるものだろうか。実は未だに診断名を疑っている節がある。

福永は何しろこれまでに、自覚としては、躁状態を経験したことがないからだ。
そして、シェアハウスの友人や家族からも「躁だな」と明らかにわかるような行動をとっていない、と言われてはいる。

医師に言わせれば双極性障害2型で出てくる「軽躁状態」というのは概して自覚はその程度で、周りから見ても「調子が良さそうだ」「仕事ができる奴だ」という程度にしか見えない場合が少なくないのだそうだ。

周りや自分からはそう見えていても、実際には脳は過剰なエネルギーを常に使っていて、疲弊しきってしまう。
躁状態でリチウムバッテリーを水に漬けるように過剰放出したエネルギーの枯渇から、次のターンにはうつ症状が出てしまう、というのだ。

確かに福永は完璧主義なところがあって、自分で言うのも烏滸がましいが怠けずに仕事をすることに関しては長けている節があった。
快楽主義者(?)であるところの同居人の松田くんや生真面目なバンドメンバーの啓太郎からさえ「ケントは時々異常に仕事ができる」と言われていた。

起きてすぐパシっと集中して、12時間以上集中力を切らすことなく作業をして、サクッ遊んで、眠る。それが可能だったのだ。
それは自分の美徳の一種であるかのように思っていた。
でも、もしかしたら本当に異常だったのかもしれない。
だから、うつ状態に入ってしまったのかもしれない。
今となっても、福永には、わからない。



3月にパニック障害が起きる少し前。
2週間ほど、よく眠れない時期があった。
常に「徹夜は人を無意識にアホにする(数時間睡眠を怠っても、酒に酔っているほど認知能力が下がり、恐ろしいことに、それに対して本人は無自覚である)」と思っていたので、寝よう寝ようと努力をしていた。しかるべき時間になったら布団に入って目を閉じ、横にはなる。
しかし目が冴えていて寝に落ちれなかった。

それでも毎晩2〜3時間くらいは寝に落ちていたと思う。1度も完徹はしていない、しないように努めていたのだ。

3時間も寝ると朝が来た。今日も今日とて、締め切りが待ち構えている。これ以上横になっているわけにはいかないのだ。寝る努力をしたのに、寝に落ちれなかったのだからこれ以上どうしようもない。

確かにそういう時期があった。
その時期を以って医師は「福永は当時長らく軽躁状態にあった」と判断しているようだ。
だが、躁状態に一般的に見られる「頭が良くなったように感じる」「大きな買い物をしてしまう」「次々アイデアが湧くが一貫性がない」「気が大きくなる」「やたらと喋る」といった症状は特に出ていなかったように思う。
周りの人に確認しても、そういう症状には見えなかったという。
ただ仕事が楽しくて、一方で、眠れないのが辛かった。それだけの時期だと思っていた。

ところが3月9日に実際に「パニック障害」はきちんと訪れた。
それ以降ややあって6月、ついには大好きな作曲はおろか、ほとんど何に対しても興味を失ってしまっているのが今だ。



本当に自分は双極症なのだろうか。
この答えは誰にもわからないのではないか。

医師が、過去から自分の生活を逐一確認していて、ああこの時に躁が出ていますね、だから今のうつ症状は双極症が原因ですね、だから双極症のうつ症状に効くお薬を出しましょうね。

と、いうのならわかる。
けどたった1回5分の診察で。二週間に1回の確認で。
何がわかるというのか
、というのが正直な感想だ。

調べてみてわかったのだが、日本の精神医療制度では5分〜10分以上の時間を1人の患者に設けるのはちょっと難しいようだ。
経済的な理由もあるし、医師不足の側面もあるから。

5分じゃ正確に伝わらない。と、福永は思う。
こちらの認知能力も落ちているので、症状や疑問を紙に書いて渡してみる、などさまざまに伝えるための工夫もしてみた。

けど、やはり5分の壁は大きい。紙に書いても医師は「斜め読み」せざるを得ないのだ。
前夜、1時間かけて丁寧に書いた、まるで他に縋るところのない所在のなさ。
それを極めてシンプルな言葉になるまで推敲した熱意と強烈な悲鳴を込めたメモ用紙であっても。

福永が実は双極症でないのであれば。
今やっている「薬ガチャ」も全く無意味にならないだろうか。
別の病気なのに、然るべからざる薬をガチャし続けているとしたら….。
確かなのは今、間違いなくなんらかの(しかも医師には「わからない」ような強烈な退屈という)うつ症状が出ている、ただそれだけだ。

ポジティブに捉えよう。8週間かけてその薬が効かないことがわかった。
じゃあ他の薬を試してみたら良い。「1歩前進」と言えるだろう。
全部試し終えたら、診断名を変えてまた1から始めたら良い。
いつかは薬が効くだろう。そのためには、辛抱が必要だ。

…でも!今、福永はたった15分を過ごすために多大な苦労をしている。
たった1日を潰すのに苦悩しているのだ。頭を抱えて大絶望している。
この8週間が「病気を治すために確実に前進する8週間なのだ」と確信を持って思えるなら……まだ時間を潰すことに少しでも「価値を見出す」ことができるかもしれない。

でも。とんだ無駄足にしかならないかもしれない8週間を、たった5分に頭を抱え、絶望しながら過ごすことは、本当に本当に難しい。極めて苦しい。

….これはうつ状態だから、そう思うのだろうか。
健康な人なら、ポジティブに捉えられるのだろうか。
今、なるべく自分の脳みそを信用しないようにしている。
だから、正常である人々の率直な意見を知りたい。


<病気を受け入れるということ>

福永は精神科は初診である。これまでは、ほんの4ヶ月半前までは、自分の心は健康だと思っていたし、おそらく事実そうであった。

今は実家に住まわせてもらっている。実家の方がより強烈に退屈でやるべきことがなく、途方には暮れるのだが、なにしろより安心なのだ。一長一短だが今はとにかく実家で療養をさせて頂いている。ある意味で入院のようなものだ。

実家には至る所に家族写真が貼ってある。
30歳くらいの時に家族で焼肉に行った時の写真が貼ってあった。
父と肩を組んでおり、まだ髪の毛は長かった。

……..この頃は「健康」だったのだ。仕事は楽しくて、苛立つことやうまくいかないことはあっても、毎日が充実していたのだ。
こんなことが起きるなんて想像もしていなかった。

それが2024年3月9日を機に何やら大きく変わってしまった。
1日の半分を眠り、もう半分を砂利を噛みながら存在しない味を探すようにして、絶望して、途方に暮れている。いったい全体あの日から何が変わってしまったのだろう。



双極症に完治という概念はない。実はうつ病にも完治はない。
寛解という、躁もうつも出ていない時期は、ある。
今目指しているのはこの寛解と呼ばれる状態だ。

双極症の再発率は、適切に治療しなかった場合には5年以内に8割にものぼると言われている。適切に治療したとしても、再発しないとは限らない。むしろ再発のしやすい病気であり、再発の度に症状は悪化していきやすい。

医師は前述の通り1回5分の診療で「おそらく適切であろう薬を見繕って出してくれる」に過ぎない。
口が悪いかもしれないが、この際言ってしまうならば。
「専門知識と薬をくれるマシーン」のようなものだ。
それ以上の手厚いケアを受けることは、残念だけれど、できない。
頼れないのだ。


病気との付き合い方は、自分自身で探る必要がある。
うつ状態の非常事態の脳みそを捻って、強烈な退屈と闘いながら。
自分で掘り当てるしかないのだ。
そして、あの日を境に全てが変わってしまった以上、もう一生付き合っていくことになるのだ。

準備する余裕なんてなかった。

その重圧に福永は未だ耐えきれていない。
薬は一生飲むことになるだろう。双極症とはそういう病気だ。
高血圧や糖尿病と一緒で、服薬は基本的に「一生もの」となる。

すると道路交通法上(本来は)運転ができなくなる。本当は風邪薬を飲んでも頭痛薬を飲んでも、運転したらいけないのだ。
田舎の人たちは車が必須だから、正直そのあたりは緩く捉えているらしい。
でなければ「田舎に住む人は精神疾患になれない」ってことになってしまう。車がなければ生活できないのだから。

流石にそれはおかしいんじゃない?ということで、現在道路交通法の改正を進めている最中らしい。すなわち、医師の許可があれば精神疾患の薬を飲みながら車を運転することを許可する、という法整備の流れだ。(実際福永の場合、薬を飲んでも眠気は全くと言って良いほど出ていない)

とはいえ福永はひどく落胆した。
福永の昔年の夢は、田舎に音楽スタジオを構えての2拠点生活だったから。
2拠点生活ということは、車が要る。運転する必要があるのだ。

夢が1つ、絶たれてしまった。そのショックは大きかった。

病気を受け入れること。
強烈な退屈だけでも絶望的なのに、同時に、病気を受け入れること。
同時並行で行わなければならない。今の自分にはあまりにも荷が重い。


<大きく変わりゆく病状>

ここまで6月以降の症状を書いてきたが、初めてうつを強烈に感じたのは5月の前半のことであった。
あの頃の症状は今とは随分違った。

5月頭に福永は縁側で木彫りをしていた。その頃、木彫りが唯一の趣味であり、癒しであった。スプーンやマグカップを天然木からナイフで掘り出すという遊びだ。当時彫り上がるとインスタグラムにひたすらに投稿していた。

庭で木彫りをしていると、78歳になる仲良しのお隣さんが話しかけてきた。
当時ほとんど周りの人にカミングアウトしていなかったが(noteには書いたけど)、その日はなんだか切ない気分で、話の流れでお隣さんに「心の病気になってしまった」とカミングアウトした。

すると妙齢の彼は掠れがかった声で
「お前な、人生はなるようにしかならないんだよ」と言った。

この言葉は福永の心に、ポジティブな色としてもネガティブな色としても反射しなかった。ただありのまま。「なるようにししかならない」という事実が心の上に丁寧に陳列された。

その瞬間、涙が止まらなくなった。理由はわからない。
全く、涙が止まらなくなった。

それから7日の間、起きてから寝るまでの間、一度も涙が止まらなかった。
これはまずい状態な気がする、と思った。
思い切って両親に「実家に帰りたい」と伝えたのがこの頃だ。

それまではあまり病気のことを両親に話していなかった。
立派な長男でありたかった。自慢の息子でありたかった。心配をかけずに、元気に暮らしていたかったのだ。

だが何かしらの関が決壊を起こしたようだった。もう止められなかった。

「生老病死」にまつわるあらゆることが、ほんの隙間風に乗って聞こえてくるだけでも強烈に怖いと感じるようになった。
何をしていてもゾワゾワして、怖くて、脳がぼんやりした。
街にいる老人のシワを見るだけで強烈な怖さを感じた。
自分はいつの間にか33歳になっていて、このまま老いていつか死ぬ、というポイントだけが強烈にクローズアップされて感じられた。

「30代の人間がいつか死ぬことを一々憂いていないように」という一説が当時読んでいた、サン=テグジュペリ「人間の土地」の中に出てきた。
しかし今、福永は、いつか死ぬことが死ぬほど怖い。

久々に実家に帰った。両親は67歳と61歳になっていた。
福永が仕事に夢中になって、日々を謳歌している間に、彼らは想像以上に老けていた。これまで、よくみていなかったのだ。

彼らの皮膚や枯れた咳払い。両親もいつか死ぬのだ、と思った。そう思うとまた涙が溢れてきた。
それを止めることはこの世の誰にもできないのだ。怖い。

道路を子供が笑いながら走る。母親が心配そうに叱る。
腰の曲がったおばあさんが1歩ずつ道を横切る。
シジュウカラが姿を見せることなくどこかの街路樹から鳴く。
道路のほんのちょっとした景色。

そんな当然の景色の中だけでも…生老病死はこの世界の全てを満たしていた。
だから、何をみても涙が出て、悲しくて、震えるほど怖かった。
恐ろしかった。抗う術を知らなかった。

空と大地に挟まれて死ぬような恐ろしさを感じたこともあった。
比喩ではなく、本当に挟まれて死ぬような圧迫感を感じたのだ。
(中国の愚かな逸話にそんなのがあったような気がする)
2038年に予想される大地震に思いを馳せたりした。
日本に住む限り南海トラフから逃れることはできないのだ。
その他普段なら気にならないような本っっっ当にちょっとした心配ごとですら、あまりにも強烈な恐怖として常々脳を圧迫し、身体中を硬らせた。

当然、本も映画も漫画もテレビも一切入力ができなくなった。
生老病死に満ちているからだ。エンタメでさえも、お笑いでさえも。



それで5月はいっそう木彫りにハマっていった。
木を彫っている瞬間だけは、生老病死と距離を置けた。
あの頃の心の憩い、オアシスだった。

あとは数独をやっていた。
数独はあくまでも数字を用いた論理パズルであって、何も意味がない。
意味がないことは当時の福永には救いだった。
意味があることは必ず命と繋がってしまうから。
命とつながるものは枯れることとの連想が切れない、そういう精神状態だったから。


5月のこの頃はまだ今より医師を信じていた。
信じていたというよりは、他に頼ることができるものがなかったので、縋り付いていた。
今だって頼れるものは他にないのだけれど。
信じている方が治りが早くなる、と思っていた部分もある。

医師の診断によれば当時の福永の状態は「典型的なうつ症状」だという。
これがうつ、なのか、と福永はその時点で納得した。知らなかったから。

7日間、起きてから寝るまでの間泣き腫らす壮絶weekが過ぎると、徐々に涙の量は減っていった。

それからも極めて辛い時期が1ヶ月ほど続いたが、6月の初旬には生老病死に対する病的な敏感さと、パニック障害に対する恐れがほぼ同時に消え去り始めていることに気がついた。

やっと解放された、と思った。これで少しは…体調が回復するのではないか、と期待した。
この先は少しずつ、楽になっていくのではないか。
もう地獄の底は見た。5月のあそこが底だったのだ。
そう期待をしていたのだ。


<まっすぐ綺麗に治らない、という恐怖と孤独>

ところが6月の中旬からの経過は前述の通りである。
今度は新たな症状として「強烈な退屈」が始まった。

前述の通り、あらゆる興味と好奇心が失せてしまった。
木彫りができなくなったのは、非常に辛かった。オアシスを失ってしまった。でも、もう逆さまになったって興味が湧かないのだ。
当然数独もできなくなったし、あらゆる趣味が福永のことを見放した。
楽しかったことが、何一つ楽しくない。なんの達成感も得られない。
生老病死への強烈な恐怖は去ってくれた。けど、楽に過ごせたのは6月初旬〜中旬までのほんの限られた間だけだった。

周りから見ていると、5月のほうが手が付けられない感じがあって、何を言って良いかわからない感じもあって、いわゆるうつっぽい感じもあって、「病人」っぽかったようだ。

だから周りの人の評価としては「徐々に良くなってきている」となっている。医師もそう感じているようだ。

しかし今現在感じている「強烈な退屈」は5月の症状に決して勝るでもなければ劣るでもない、全く異なる、極めてしんどい症状である。
医師には「よくわからない」と突き放されたとしても…。

何にも興味が持てない。楽しくない。
→なら新しいことを探して、新しい楽しみを得られれば良い。
→けど、そんなモノを探す体力も残っていない。

左右、二重の壁に圧死させられそうになっている。

このnote原稿を書き始めてすぐ。(…何日にも跨いで少しずつ書いている)
どうやらモノを書くという行為に体力がごっそり持っていかれたようだった。

書いている間は数ヶ月ぶりに「楽しい」という感情のかけらを発見して安堵していたのも束の間、反動としてその晩には、強烈さをさらに極めた退屈が待ち受けていた。

万事休す。手の施しようがない。
どこに逃げたら良いのだろう。医師には救い出す力はない。
自分で探すしかないのだ。
でも手持ちの体力は、これっぽっちの文章のさわりを書き始めるだけのことで、ごっそりと持っていかれてしまうようだ。

この体力の低下は福永を焦らせた。
4月にはnoteを一気に10000字書いても、それで体調を崩すことなんてなかったから。もしかして自分は、悪化しているのではないか。
4月の調子の良い時には八丈島へ行くことができた。
6月の調子の良い時にはデイキャンプへ行くことができた。
今、冒頭3000字を1時間ちょっとかけて書いただけで、ごっそり疲れている。

どうしたらよいのだろう。

医師も、周りの人も、「いつか必ず良くなるから」という。
それを信じて良いのだろうか。
いつかっていつなんだろう、15分を潰すのに苦労しているのに。

医師は言う。
精神科の治療は三寒四温であり、3歩進んで2歩下がるモノだ、と。
怪我や普通の病気の経過とは違うのだ。
昨日できたことが今日はできなくなったりする。
それでも長い目で見て総合して回復していれば治療としては成功なのだと言う。

だから、一喜一憂しないように、と。
…そんなこと可能なのだろうか。
長い目で俯瞰して見る能力が今、まるで枯渇しているのだ。
今、たった今1分を過ごすことに苦労しながら、長い目で見て一喜一憂しない。
そんなことが果たして本当に可能なのだろうか。


<もう一生できない>


シェアハウスのいつもの夕飯後のだべりタイム。
暑くなってきて、みんなはビールの飲み比べをやっている。
でも、福永は参加できない。おそらく、一生酒は飲めない。
薬との相性が悪いから。薬を一生飲むならば、酒も一生飲めない。

雑談の中に海外旅行の話が出たりする、でも、福永はおそらくもう時差のある国へ一生行けない。
双極症は1度の徹夜でも再発する可能性があると言われている。
生活リズムの厳守(起きる時間、食べる時間、寝る時間)が寛解期の安定に必要なのだ。

街を可愛いが走る。咄嗟に、あ、ああいう車良いな、と思ってしまう。
2拠点生活を視野に、ちょうど車にめざとくなっていた頃合いだったから。
でも次の瞬間思い出す。2拠点生活は、運転は、法律が変わるまでできないのだった…。

別に、酒も、海外も、車も、狂うほど欲しがっていたわけじゃない。
けど、ある日突然、何の準備もなく「もう一生不可能です」といわれると途端に恋しく思えてしまう。

病気や障害を負って、それでも前向きに生きている人のエピソードを見たり読んだりするたびに、悲しくなってしまう。
どうして自分はそういうふうに、前向きに捉えることができないのだろうか、と。

うつという病状の一つの効果なのだろう。
何事もポジティブに受け取れないのだ。


<でも、病気になってよかったこと>

病気になってよかったことが一つだけあるとするならば、今実家で過ごしていることだ。もう少し正確に言えば、両親と時間を共にしていることだ。

3月以前、あの時期、仕事は順調に増えていた。
あのまま行けば、CM作曲家としてもう一歩前進できる気配があった。
ということは、あのまま病気にならなければ、実に長い間家族を顧みることがなかったのではないかと思う。

両親のどちらか、あるいは両方が要介護や入院となってはじめて気づいたのだと思う。2人はもう、初老であるということに。

だから今実家にいる、という側面もある。
両親の四肢や意識がハッキリしているうちに、実家に長期滞在できてよかった。病気がなければ絶対にそんなことはしなかっただろう。

毎晩ハグをすることにしている。
母親は「別にそれでもよかったんだけど、もう2度と息子に触れることなんてないんだなと漠然と思っていた」と言った。

双極症は因果は未解明なものの、遺伝や生まれつきの因子が原因であると言われている。
その話をした時、母は「謝らないよ」と言った。
その背中は大きかった。格好良いと思った。
謝られていたら…立ち直れなかっただろう。
母は福永が長年かけて、きっといつか立ち直るであろうことを信じてくれているのだ。


<とある扉が閉じた時、こっそりと別の扉が開いている>

両親は登山が好きだった。だが最近は足腰がキツく、トイレも近くなったために山に登れていない。

代わりに「チェアリング」をするようになった。チェアリングとは、近所の広い公園などにキャンプ用の椅子を設置して座ることだ。
ただ座ること、によくもまあ、ネーミングを施したものだな、と思う。

両親は休日になると楽しそうにチェアリングをしている。
福永も混ぜてもらったことがある。

福永の歳では、公園に行ってもフリスビーなんかを持っていってしまう。
公演を見渡す。若者がバトミントンをしたり、絵を描いたりしている。
子供はひっきりなしに騒ぎ、明らかに不要な大声で友達を呼ぶ。
椅子に座って、そういう様をただただ眺める。

両親は「山になんて登らなくたって、これで十分気持ちが良い」と言った。
福永にはまだ完全にはわからなかった。

つまり、老いて、体の自由が効かなくなったとする。
するとまるで不自由になったように思う、事実山には登れなくなる。
一方で、代わりに「チェアリング」という若者にはわからない新しい喜びが生まれてくるのだ。

老人は概して花鳥風月を愛しているように見える。
扉は、歳と共に閉じていく。
だが、ある扉が閉じた時、きちんと首を振り仰ぎみれば、また別の扉がこっそりと新たに開いているのだ。

両親は見つけた。登山という扉が閉じた先に、チェアリングという扉がきちんと開いている事実を。

病気というものは老いに近い、というか、密接であると思う。
今の福永は病気をして、不自由になり、仕事ができなくなり。
ある意味「定年退職した老人」の退屈に似たモノを背負っているのではないかと思う。

今の脳みそは、うつが支配している。体力もごっそり持っていかれている。
だから気づかない。気づかないけれど、何かに不自由するようになった時。
扉が閉じた時には、必ず新たな扉がこっそり、開いているはずなのだ。
まだ見つけ出せていないけれど、きっと間違いなく。



父は老人介護の仕事を長年やっている。
病気や老いに対して、多くの当人や周りの家族が「できないこと」にばかり目を向けているのが、介護者として、客観的にみていてとても勿体無いというふうに実感しているという。

「もうできないこと」でなく「まだできること」に目を向ければ、楽しさは無限に見つかるはずなのに、と。

この人は、ボケて着替えができなくなった、のではない。
然るべき服さえ用意してあげれば、自分で着替えることができるのだ。
放っておいたら確かにチグハグの服を着てしまうのであっても。

それに気づけば、ちょっとした補佐(服を用意する)だけで良いのだ。
自分で着替える、という喜びを奪い去る必要はないのだ。


<なるようにしかならねえんだ>

78歳のお隣さんは「人生はなるようにしかならない」と言った。
5月の福永はそれを機に涙が止まらなくなった。

これは推測なのだが、福永はこれまでずっと「成すようにしてきた」のだ。
どうすれば成せるのかと目標と方法を定め、叶えようとしてきた。
誰かの役に立つために、成す。昔年の夢を実現するために、成す。
そのうちのいくつかは叶って、そこに達成感や楽しみを感じた。
この一連がこそ、福永の人生だったのだ。

実際に成せるかどうかは大きく運に左右されることや、成果主義批判などはこのnoteでも散々書いてきた。つまり「なるようにしかならない」と散々書いてきた。きっと自らの頭を冷やすために。
でも、やっぱり残念ながら福永は成す悦びに依存していたのだ。

でも、今、本当に「なるようにしかならない」状況に立たされた。
病気とはある意味真に自然であって、時が経たねば治らないのだ。
あるいは時が経っても完治はしないのだ。

目標がない、成せることがない、達成がない、4ヶ月半。
うつであること以前に、これまでの福永が楽しみにしていた人生の掛かりごとに、何一つ参与できない、というのも退屈を強烈にしている原因だろう。

前回このnoteにコメントをくださった、過去に同じ診断名をつけられたという匿名の方は経験から「治ることはない、けれども忘れることはできる」と書いてくださった。実に励まされる一言だった。

いくらここに呪詛を書き連ねようとも、自らわずかな体力を絞って、ほぼ存在しない楽しみや達成感を捻り出しながら、1日1日、1時間1時間を潰していくほかないのだ。時にしか解決できないことがある。なるように任せるほかない
それが今の福永の状況だ。

お隣さんは78年という福永の倍以上の歳月をかけてそれを知っていた。
福永にはまだ、重たく感じる。けど、なるようになる、を成さねばなるまい。


<いつかまた作曲家になりたい>

双極症は完治こそしないが、社会復帰できない病気ではないと多くの文献に書かれている。寛解状態を維持する努力を怠らなければ。具体的には服薬と生活リズムの厳守をきちんと続けて、ストレスを軽減し、コントロールすることができれば。

今でもまだ、作曲の仕事に復帰したいと思っている。
人に頼んでいただいて大好きな作曲に携わる時間は至福だったと今こそ一層に思う。
そのために必要なライフサイクルはこうだ、とか、こんなふうに仕事を受ければ病気と共存可能なのでは、というロールモデルも脳内では出来上がっている。

とはいえ福永が仕事に参与できない間にプロデューサーさん達はその穴を埋めるべく他の作曲家を探すだろう。福永のいない間に強固な関係性を築くだろう。福永がポンと現場に戻ったとて、もう仕事を与えてはくれないかもしれない。そういう焦りは常に強烈に付き纏っている。なるようにしかならない。

4ヶ月も作曲をしていない。体は覚えていてくれるだろうか。
体調が復調したとて、その時アイデアは湧くだろうか。
これまでの自分は長らく無自覚に軽躁状態だったのだろうか。
だとしたら「自分の普通」っていったいどんな状態のことなのだろうか。
不安は止まらない。

だが友人の中には「この機会を経た先の福永が、この先どんな曲を書くのか、楽しみにしている」と言ってくれる人がいる。
この特殊な機会に福永が得られるものはきっと多い、のだろう。
そう信じたい。
総人口の1%にしか経験できないような、レアな状況に立たされている。
あるいはもっと。同じ症名がついていても、症状は千差万別なのだから。

ポジティブと言ってもせいぜいこれくらいのことを脳内でまったりと転がすことしかできていない。
note書いてみてやはり、呪詛にまみれた文章が出来上がってしまったと思っている。
だって今、本当に辛いのだ、これ以上どうしようもないのだ。

シェアハウスの松田くんは、とにかくこの夏を乗り切ろう、と言った。
そんなに大きなスケールで時間を考えることが、ここ数ヶ月できていなかった。「この夏」だなんて。15分や30分をどうやって乗り切るかしか、考えていなかった。

けど「この夏」か。
まずはこの夏を、どうにかして乗り切ってみるしかない。
その頃にはきっと何か体調も変わっているだろう。

その証拠に、準備には3ヶ月かけて、執筆にも10日以上を費やして。
ついにこのタイトルでnoteを1原稿分、書き切ることができたのだから。

これですら達成感や楽しさを得られない現状の自分の「うつ」の心に対してやきもきしながら。
(いったい達成感や楽しさはどこへいってしまったのか)
この症状と、長い戦いを続けていくことになるのだろう。

…今はもう、このnoteを書き切ってしまうことが怖い。
また一つ、趣味を失うことになるからだ。
また一つ、ようやく辿り着いた退屈を埋める手段を失うことになるから。
これがうつ的なネガティブ思考であることが理性でわかっていても。
不安は止まらない。これがまさに「うつ」なのだろう。


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