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言語哲学の流れ

「言語哲学がはじまる」を読んだ。自分の理解の定着のために、内容をまとめたい。


問題提起

新たな意味の算出可能性問題

私たちは日々、新しい言葉を作り、それを読んだり聞いたりしている。また新しい言葉以外でも、例えば「猫が富士山に登った」という文のように、既存の言葉の組み合わせで常に新しい「文」をまさに今作っている。この問題を「言語哲学がはじまる」では「新たな意味の算出可能性問題」と読んでいる。
この問題に対して、「既知の語を既知の文法に従って作った文だから、初めて読んでも意味がわかるのでは」というひとつの自然な解に行き着く。従って「猫」や「富士山」のような語の意味がわかれば、全体の意味がわかることになる。(まず語の意味を捉えるというアプローチ、語の意味は文の意味以前に語で決まるのではという、要素主義的アプローチとして考えられる。)

ロック

指示対象説、観念の世界

富士山のようなあるひとつの対象は、それ自体名前と対象が一対一対応がつくので、わかりやすい。(本では固有名と呼ばれている。)その他の一般的に固有名詞と呼ばれている単語に関しても、ひとつの個体との対応がついている。この考え方を一般に拡張すると、「語はなにかある対象の名前だ」という結論に行き着き、語句の意味をその語の指示対象だとする考えを指示対象説と呼ばれる。
一方で、「猫」自体の意味は一般性を持っているが、実際に会えるのは個別の猫でしかないのに、私たちはどのように「猫」の意味を理解しているのかという問題に行き着く。これを個別性と一般性のギャップ問題と本では呼んでいる。
その問題に対し、ロックは人間知性論のなかで、人間は個人で心のなかで、個別の猫たちから一般観念を抽出している(一般観念論)とする論を展開してギャップを埋めようとした。

フレーゲ

ロックへの批判

そのような一般観念論に対して、フレーゲは他人がどのような意味で「猫」を理解しているかわからないのでコミュニケーションができなくなると批判。
新たな意味の算出可能性問題→語の意味を捉えよう(★)→指示対象説→個別性と一般製のギャップ問題→一般観念論→行き止まりという議論の流れから、最初の「語の意味を捉えよう」という部分から引き返して考えることにする。

文脈原理と合成原理、意味の世界

今度は語の意味から出発するのではなく、文の意味から出発するというアプローチを取る。つまり、文の意味との関係のみ語の意味が決まる(文脈原理)という立場を取る。ここで、「言語表現」とその「意味」を区別する。
固有名は言語表現であり、個体自体がその意味になる。ミケという名前の猫がいた際に、言語表現「ミケ」と個体の<ミケ>をかき分けると、「「ミケ」は<ミケ>の名前だ」という言い方が成立する。この考えを一般に拡張する。
、個体から真偽への関数と定義し、猫を観念ではなく、述語で考えるというアイデアを採用し、その関数を命題関数と呼ぶ。「・・・は猫だ」という述語の意味を、<xは猫だ>という個体を入力して真偽を出力する命題関数として捉える。
このように捉えると、「猫はよく寝る」という文の意味は<すべてのxに対して、xが猫であるならば、xはよく寝る>とかけ、論理語で捉えることができる。このような思考を広げると、全体の文の意味も説明できそうである。
つまり、文の構成する語の意味が決まれば文の意味も決まる(合成原理)が使えそうである。一方で「猫はよく寝る」「ミケは猫だ」など、命題関数に語を代入されたものは、関数として真偽を出力するので、文の意味は真偽となる。

意味の2つの側面

今まで意味という単語を使っていたが、実は意味には外延(例/指示対象)内包(定義/意義)という2つの側面がある。ある概念に対して、その概念に当てはまる対象を「外延」、その対象を取り出すための属性を「内包」と呼ぶ。素数という外延の場合、「2,3,5,7・・」が外延、「1と自分以外に約数をもたない1より大きい整数」が内包に当たる。
フレーゲは、固有名・述語・文のそれぞれに対し、意味の外延的側面、内包的側面のどちらの側面もあると主張。
固有名・述語・文それぞれの外延的側面(指示対象)は、固有名は個体、述語は命題関数、文は<真>/<偽>である。
次に、固有名・述語・文それぞれの内包的側面(意義)を考える。まず文に関しては、その文がどういうときに真になり、どういうときに偽になるかを述べた「真理条件」と呼ばれるものが文の意義である。(この解釈は諸説あるらしい。)
述語の意義は、「xは二等辺三角形(二辺が等しい三角形)である」、「xは二等角三角形(二角が等しい三角形)である」という2つの述語の例を考えると、どちらも同じものを指すので外延という意味は等しいが、内包を考えるとそれがどのようにして真になるかを説明するものが内包であるため、「その図形が三角形であり、二辺が等しい」という条件が内包にあたる。
固有名に関しては、固有名は指示対象だけでよく、(新倉健人は新倉健人という個体があればよく)意義を考える必要があるかという点が非難されるが、フォスフォラス(明けの明星)とヘスペラス(宵の明星)の認識の違いを理解するには固有名にも意義が必要とフレーゲは反論し(同一性の議論)、固有名にも意義の側面があるとした。

ラッセル

ラッセルは文脈原理を否定し、要素主義的に考えた。また意味の意義という側面を認めず、指示対象だけで言葉を捉えようとした。ラッセルは考えが変化し、第一形態から第三形態まで変化する。

第一ラッセル

フレーゲは「初代内閣総理大臣」という固有名ではないけれども、ある一つのものを指す語に関しても、通常の固有名と同様に個体指示語という扱いをしていた。その流れを踏まえ、「日本の初代大統領」という言葉を考えてみる。フレーゲの解釈を適用すると、「日本の初代大統領」には、指示対象はないけれども、意義はあると解釈した。一方でラッセルは意義という側面を認めなかったので、このような言葉に関して意義を否定し、ラッセルの世界では指示対象はある、つまり<日本の初代大統領>は存在すると言い切っていた。

第二ラッセル

第二形態のラッセルでは確定記述という概念を導入。フレーゲのときに識別していなかった「初代内閣総理大臣」というただ一つの対象を表すけれども個体指示語ではない表現を確定記述と呼び、「日本の初代大統領」は確定記述で、「伊藤博文」という言葉は、固有名として、フレーゲでは同列で扱われていた固有名とまとめていたものを2つに分けた。
またフレーゲの時に進めていた論理学での記述法に定冠詞"the"を導入することで、今まで"all"と"some"のみで繰り広げていたものを拡張。そうすることで、日本の初代大統領を命題関数と捉えることで、存在するか否かという議論から、確定記述を用いた文は、命題関数に当てはまるものがただ一つ存在するという主張で読み替えられる(記述理論)ということで、「日本の初代大統領」に関する第一ラッセルの問題を解決しようとした。
一方で、意味の中で指示対象の側面は認めているが、意義は認めていないので、フォスフォラスとヘスペラスの認識の違い(同一性の議論)は解決しない。

第三ラッセル

この問題に対し、今まで考えていた固有名も、全部述語的に捉え、<xはフォスフォラスだ>、<xはヘスペラスだ>という命題関数と捉えることで、「フォスフォラスとヘスペラスは同じものだ」は「あるxがただ一つ存在し、xはフォスフォラスであり、かつ、xはヘスペラスである」であるという文で捉えることにより、解決した。
一方で、この解決方法では、代入するx自体が今まで固有名としていたのに、代入するものがなくなってしまうという問題になる。これに対し、「あれ」と「これ」と呼ばれる指示語だけが、固有名であるという解釈をすることで、これを解決しようとした。(論理原子論)

前期ウィトゲンシュタイン

言語優位の立場

ウィトゲンシュタインは、「世界は成立していることがらの総体」「世界は事実の総体で、ものの総体でない」というところから「論考」を書き出した。
一般に、言語と思考に関して、2つの考え方がある。一つは思考が言語に意味を与えるという考え方(思考優位)、もう一つは言語が思考を可能にするという考え方(言語優位)という2つがあり、ウィトゲンシュタインは哲学史上特記すべき特徴として、言語優位の立場を取ったことが今までの哲学者と異なる。

全体論的言語観

ラッセルは、命題は現実に存在する対象から構成されると考え、<夏目漱石>、<浮雲>、<・・・は・・・を書いた>という要素が組み合わされ、<夏目漱石は浮雲を書いた>という命題を構成した。これは論理的原子論と称していた。一方ウィトゲンシュタインは要素主義ではなく、文脈主義で考えた。
意味は指示対象のみ、文脈原理を最大限に拡張し、文から言語全体へ推し進めた。つまり、「言語全体との関係においてのみ語の意味も決まる」という全体論的言語観という立場を取った。

まず現実の「世界」と「言語」の2つの概念に分ける。まず世界について考えるが、「現実に成立していること」を「事実」、「現実として成立しているかどうかわからないか可能な事実」を「事態」と呼ぶ。
・世界の中にある事実から対象を取り出す。(分節化)
対象で代理する(世界から言語への写像)
・言語の中で、を組み合わせて事態を作る
また「その対象がどの可能的な事態に現れうるか、その論理的可能性のこと」を「対象の論理形式」、「その語がどの有意味な文に現れうるか、その論理的可能性のこと」を「語の論理形式」と呼ぶ。語の論理形式は実際の言語使用が了解され、語がどのように使用されたかに依存する。そして語の論理形式は、その後の指示対象の論理形式として捉えられる。それぞれの了解は循環し、にわとりたまごの関係になっている。
また「思考可能な世界のあり方の総体」を「論理空間」といい、言語側で対応するものは語りうる語の総体である。論理空間の外部は思考不可能な領域であるため、世界のあり方に応じて真偽が言える真理関数の範疇に扱えない、自我や生死等といった哲学問題を論理空間の外部にあるとして、思考不可能なもの(語り得ぬもの)とした。

論理哲学論考の解説図(名=語)

横比較

フレーゲ、ラッセル、ウィトゲンシュタインを横比較すると次のように整理できる。彼らはそれぞれの考え方を導入しつつ、採用するものを変化させながら、過去の思想をアップデートした。

フレーゲ・ラッセル・ウィトゲンシュタイン横比較

一方、前期ウィトゲンシュタインの思想も問題がなかったわけではなく、言語は固定された体系だと述べられていた。一方言語使用によって言語は変化をするので、後期ウィトゲンシュタインの『探究』では静的言語観から動的言語観へ、人々のコミュニケーションの中で変化をしていくものであると捉えることで、その部分をアップデートする考えを示した。

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