その「今日の学び」は、本当に「今日の学び」か?
もう1ヶ月くらい前になるけど、運営している友達に誘ってもらい、『生き方見本市』というイベントに参加してきた。
このイベントはイベント自体で面白かったのだけど、ぼくが今日書きたいのは、最後に司会の人が言った言葉について。
いまごろになって、ジワってきた。
イベントの最後、司会の人が『振り返りをしましょう!』と言って、それぞれ近くの席の人と『今日のイベントの学び』を共有し合った。
ただ、印象に残っているのがそのあとの言葉で、共有タイムのあと、司会の人が『いまみなさんにシェアしてもらった内容って、このイベントでの新たな学びというより、前々から薄々思ってたことですよね?それを今日のイベントで再確認したっていうほうが近いんじゃないでしょうか』というようなことを言った。
続けて『今日みなさんに本当に持ち帰ってもらいたいのは、そうではなくて、いままでまったくなかったような考え方、選択肢、ものの見方です』と。
そのときはぼくのなかで、あぁ確かになぁくらいの感覚でしかなかったのだけど、それから1ヶ月経ってその言葉の意味を少しずつ噛み締めている。
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ぼくたちは、日々、新しい知識や考え方を得るために、本を呼んだり、イベントに参加したり、人と話したりする。
でも、それって、イベントの司会の人が言ったみたいに、大半の時間は『持論の再確認』に費やされてるんじゃないだろうか。
もし仮にいままで思ってもみなかったような考え方に出会っても、ぼくも含めて、多くの人はおそらく『自分には合わない』『論理的整合性が取れていない』などの理由とともに、バサッと切り捨ててしまう。
むしろ新しい考え方に触れると、『持論とは違う意見』として持論の堀を固めて、より一層持論を強固にさえしてしまっているかもしれない。
でもそのスタンスだと、なかなか新しい世界が広がっていかない。
だからぼくは、『自分が弱っているな』と感じたときに、積極的に自己啓発系の本を読むようにしている。
普段だと『うさんくさ!』と思って新しい考え方を受け入れづらいから、そうやって弱っているときにとりあえず吸収しておいて、復活したあとも引き出しとして使えるようにする。
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でも司会の人の話を聞いて、通常時でも新しい考え方を一旦は飲み込んでみるスタンスのほうが、より引き出しが増えていいかもなと思った。
ここで大事なのは、あくまでも『引き出しにしまっておく』ということ。
いきなり一張羅として身にまとうのは、安直すぎる。
そんなにしょっちゅう自分の軸がブレていたら、いつまで経っても前に進めない。
まずは一旦受容して自分のバックグラウンドに置いておいて、それがなんらかの原体験や思考の整理によって『あっ、そういうことか!』とブレイクスルーする瞬間がくる。
そのときに始めていわゆる『持論』に組み込んでも、まったく遅くない。
実際、ぼくも1ヶ月前に今日の話を聞いて、一旦は飲み込んでおき、その期間に『「空気」の研究』を読んで『真の科学的思考とはなにか』について考えを巡らせたり、同じく『「空気」の研究』についてのnoteを書いていた最所さんのnoteを読んだりして、『あっ、いままで自分のなかになかったような考え方でも、とりえあず受容してみることが大事なんだな!』と納得できたからこそ、イベントから1ヶ月も経ったこのタイミングでnoteを書いている。
特に最所さんのnoteの下記の1文は、ただ単に新しい考え方を受け入れるだけじゃなくて、あくまでもそれはひとつのきっかけでしかなく、最後は自身のなんらかの直接的な経験や、ずっと考え続けるなかで自力で納得することが必要だという点で、大きな気づきだった。
私が思うのは『そうなんだ!』という新たな発見によってすぐに行動せず、『やっぱりそうだよね』と穏やかに納得したときだけ速やかに行動に移すことではないかということだ。
新しい考え方に出会ったとき、『自分には理解できない』と切り捨ててしまうのは、あまりにももったいなさすぎる。
かといって『おお!それは斬新だ!』と盲目的に飛びつくのも、その人自身の『軸』が定まらない。
なので大事なのは、まず一旦受け入れてみて、引き出しにしまっておき、どこかのタイミングで『あっ、そういうことだったのか!』というブレイクスルーを待つこと。
これが自分の『軸』を太くしなやかにする、現時点での最適な方法だ。
▼『「空気」の研究』の感想シリーズもよろしくどうぞ!
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