見出し画像

どこまでが環境か

きょうだいが似る理由

僕には3歳上の姉がいる。
僕たちは子どもの頃は近所のおばさんによく間違えられるくらい顔が似ていたし、ちょっと前に流行った男女入れ替えアプリ(?)でお互いに顔写真を変えて送ったら、「これ俺やん!」「私やんけ!」となるくらい今でも似ている。
性格や価値観、感性もきっと似ていて、姉から勧められて読む漫画は大抵ハマるし、今ではきっと僕の一番の理解者でもある。
姉弟だから似ているのは当たり前といえば当たり前なわけだけど、子どもの頃は顔以外で特に似ているとも思わなかったし実際に似ていない点の方が目立っていたと思う。問題児だった僕は中学に上がると「お姉ちゃんと違って……」とよく担任から嫌味を言われたものだ。それが大人になっていくにつれて、徐々に似ていると感じる点が増えていった気がする。

きょうだいが似るのは遺伝子が近いからだというのは周知の事実だと思うが、その中でも一卵性双生児ではほぼ同じ遺伝情報を持っている。研究では別々の環境で育った一卵性双生児には、大人になっても驚くほど多くの共通点があるとされる。知能指数や運動能力のみならず、性格や趣味嗜好、癖や異性の好みまで似通っているというのだ。
この研究結果だが「大人になっても」というのがミソで、裏を読めば大人になる前の調査は不十分な可能性もある。というのも、研究は病院の取り違えによって生後間もなく生き別れた双子や経済的事情から片方を養子縁組に出した双子のケースで、別々の環境で育って大人になっても多くの共通点が残っていることに対する遺伝子の影響力を論じているわけで、子ども時代の類似性については口頭での確認にならざるを得ないのではないだろうか。
推測だが子どもは特に環境による影響を受けやすく、大人になるにつれて生来の気質に収束していく気がする。同じ環境で育つ双子はもちろん子どもの頃からよく似ているし、別々の環境で育った双子は子ども時代には容姿以外そこまで似ていないが、いずれにせよ大人になるにつれて遺伝子に導かれるように元の鞘に収まっていくのではないか。

双子ほどではないがきょうだいも遺伝子が近いわけで、似ているきょうだいは遺伝子の影響によって大人になるにつれて類似していく傾向を踏襲する可能性がある。
僕たち姉弟は同じ家で育ったとはいえ同じ環境とは言い難く、双子と比べると姉弟では環境要因の差はかなり大きいと思っている。男女の違いを筆頭に、姉弟の関係性や両親の接し方、学校のクラスメイトや友人の顔触れの違いなど、同じ家で暮らしていても取り巻く環境は大きく変わってくる。

どこまでが環境か

以前ジェンダーについて書いた時にも述べたけど、無意識に形成された固定観念によって僕は男の世界を直走ってきたし姉は女性らしいジャンルに身を置いた。この差は遺伝的気質よりも男女観の差によるものだと思っている。
子どもの頃の僕は疑うことなく男の子として生きてきたし、男らしさを身につけることは義務だと感じていた。強くなることに憧れ、大人になれば自分も最強になれるんだと信じていた。一方で姉は強さに憧れを抱くことなく育ったと思うし、女の子らしく美術や音楽を嗜んでいた。

遺伝子というのは不思議なものだ。
生命の設計図と呼ばれ、僅か1ミリに満たない受精卵が遺伝子の発現でどんな姿形に育つかが決定する。人間の個体差はたった0.1%の遺伝子の違いでしかないとされるのだが、その渦中にいる人間の一人からすれば0.1%の差が途方もない大きさに感じる。この身を差し出したいほどに恋焦がれる想い人が現れたかと思えば法さえ許すなら今すぐ抹殺してやりたいと思うほど憎む怨敵も現れるし、美の極みであるように感じるほど見とれる人がいれば嫌悪感を隠せないほど醜く感じる人もいるし、取るに足らない存在だと見下す相手がいればどうあがいても敵わないと才能の差を痛感する相手もいる。0.1%の間に多様な個性と細やかな感性の織り成す壮大な人間ドラマが、きっと誰の生活の中にも広がっている。
身体は遺伝子を次代へと繋ぐための乗り物に過ぎないとさえ言われる。

現代は個の時代とされ、「好きを仕事にしよう!」としきりに喧伝されている。この場合の個とはどこまでを指すのか、好きという感情はどこから生まれているのだろうか。個性や自分らしさ、感情のバックボーンを深く考えずに、ぼんやりと指針にしている人も多いのではないだろうか。
個というのは自分自身を指す言葉だろう。その自分自身という存在は一匹の受精卵から始まり、様々な環境因子と遺伝子とが複雑に絡み合いながら成長して今の姿になった僕や貴方を指す。
しかし自分自身の身体の中には1キロ以上の腸内細菌が住んでいたり、心筋や平滑筋のように自分の意思で動かせない不随意筋があったり、意識を失う睡眠の時間を毎日欠かすことができなかったりと、「私」以外が確かに自分の中に存在している。西洋思想の心身二元論的に「私」のみを自分とするのなら、私以外の自分は私を取り巻く環境だと捉えることもできる。
「我思う、故に我在り」と、意識のみが自分だという視点で考えるならパーソナリティが近い姉弟だったとしても、身体の男女差を初めとした環境の違いによって選択や判断が大きく分岐していくのも頷ける。子どもの頃には学校で(多分)優等生な方だった姉に対して僕が先生になにかと反抗的な子どもだったのは、性格よりも男女差によるところが大きかったと思う。当時の僕は男なら納得いかなければ闘わなくてはいけないと思っていたし、闘う力があるのだとも信じていたからだ。よくケンカをしていたのも、ボクシングを始めたのも、家にあるピアノを弾かなかったのも、すぐ辞めるくせに運動部に入ったのも、身体的性差によるものと社会に影響されたジェンダーロールによるものだ。

いつか自分に辿り着け

もしも性格を決定する遺伝子が全く同じ子どもが二人いたとしても、頭脳や容姿、体格、体調、性別といった身体が違えば自己認識は大きく変わり、その影響で性格だって変わるだろう。身体もまた「私」を取り巻く環境であるし、もっといえば「私」さえも脳という内臓の働きによって如何様にも作り変えられる。
自己も含めた環境に適応して作られていった「私」が、大人になるにつれて本来の性質に立ち戻る居心地の良さを覚え始めて、徐々に自分らしくなることが自分探しなのかもしれない。今の日本では少しバカにされがちだけど海外へ自分探しの旅をする若者は、異国情緒に触れて自分がいったい何に感動を覚えるのかを確かめながら本当の自分を見つけられたなら、誰もバカになんてできない貴重で有意義な旅になったはずだ。
大人になって性格が徐々に似てきた気がする僕と姉も、子どもの頃に植え付けられたジェンダーロールを少しずつ紐解いて本当の自分に近づいているということなのかもしれないし、様々な環境因子によって刷り込まれた自己の鎧と装飾を脱いで無垢な幼子の自分に戻っているからなのかもしれない。

とはいえ身体も含めて自分自身なわけで、僕はこの身体から生まれたアイデンティティを愛しているし、身体的特徴や欲求が僕を形成している部分も多くあるだろう。異性愛者の男性として僕は恋も愛も性も女の子を対象にしてきたし、お腹が弱かったり熱中症になりやすかったり頭痛持ちだったり、全部含めて僕がいる。腕力に自信を持ったことがあれば加害欲を生んだこともあるだろう。良くも悪くも僕のパーソナリティは僕の身体全てから生まれたものだ。
たとえどこで生まれていても、どんな世界線を辿ってきたとしても、いつか僕自身に還ってみたい。手に入れた知識や技能や経験は生き方によって変わるけど、先天的な自分らしさは僕の中にずっと眠っているはずだ。紆余曲折を経た人生の旅の果てに、自分の心が本当に求めるものを見つけてみたい。

そんなことを考える酷暑の昼下がりでした。
皆さん熱中症にはくれぐれも気をつけてください!

いいなと思ったら応援しよう!

遠藤健太郎 Kentaro Endo
サポートしていただくと泣いて喜びます! そしてたくさん書き続けることができますので何卒ご支援をよろしくお願い致します。