フランスの暴動 bis
今回の若者の暴動の原因というべき背景を書いた記事。 La chronique politique de Jean-Michel Aphatie : "Un fossé, douloureux comme une plaie, qui porte un prénom : Nahel"
https://www.lamontagne.fr/paris-75000/actualites/la-chronique-politique-de-jean-michel-aphatie-un-fosse-douloureux-comme-une-plaie-qui-porte-un-prenom-nahel_14335804/
差別(警察による一日に数回繰り返される絶え間ない尋問、異人種故住居の賃貸や仕事へのアクセスの困難)、そこからくる貧困とそれを搾取する麻薬売買という闇に落ちる移民の子たち、と同情的な記事。記者は質素な家庭出身でキャフェのギャルソンなどいくつかの職業を経てジャーナリストになった苦労人。貧困の大変さを知っているからか、暴動に対する一方的な断罪的記事になっていない。
良心的な記事だが、この記事に書かれていることは僕が来た1990年から言われ続けてきたこと。そしてこの人もそのことをわかっているからこそ冷静に次のように続ける;騒ぎが終わるとカネが回っている大都市とその周りにある移民の人が多い郊外との溝は忘れられ、次の蜂起まで放っておかれる。
すっかり今は世界的な思想家になったスラヴォイ・ジジェクだが、まだ知的ミーハーにしか知られてなかったころ、ジジェクはたぶん日本でしか出版されていないインタヴュー本『人権と国家』で2005年の秋のパリ郊外で起きた暴動―少年が二人が警察に追われ変電所に入り感電死したのがきっかけ―をそれは建設的なものではなかったが、〈可視性〉を得るための直接的な闘争であった、と特徴づける。
その背景には、冒頭で紹介した記事のそれこそ良心を超え、私たちの社会は「選択の自由が保障されていると自画自賛する一方で、強引に民主的コンセンサス以外の選択肢としては、行き当たりばったりの暴動しか残されていない」。というイデオロギーの状況があることを指摘。
これはジジェクだけが言っていることではない。たとえばシャンタル・ムフは『政治的なるものについて』において、冷戦終了後の1990年代後半の民主主義ユーフォリア状況における民主的コンセンサスへの過剰な信頼へ疑義を呈し、民主的討議によって一意な合意を形成することを阻もうとする言説・行為を異端として一刀両断して排除してしまうことは、それが暴力的なつまり民主制を破壊するものとしてブーメランよろしく戻ってくる、と2005年のパリ郊外での暴動を見る前に警鐘を鳴らしている。
「ルールに従って行動するか、(自己)破壊的な暴力に陥るかという選択が強いられ...称賛された選択の自由」などは虚構であることが現実のことである人たちがいることにきづかされる。2005年秋の暴動に関して「政治的・社会的空間から排除されている...社会集団が、一般国民に対して自らの存在をはっきりと示したかった。」、とジジェクは喝破する。
ジジェクの言説は2005年のことだが、郊外の状況は最初に紹介した記事からもわかるように何も変わっていないのであろう。今回も18年前ジジェクが描いた状況と同様に不良少年の死が、気散じる日々をじりじりとおくり、選択肢のない無為の存在としての全国の若者たちの衝動を点火し、その結果フランスのいたるところで暴動の火がおこったのであろう。
もし変化があったのならば、大多数の人々の心証としては郊外問題は陳腐化し―もちろん冒頭で紹介したジャーナリストの様に時代遅れの社会正義という理念を頑固に大切にする人もいなくはないが―、したがってそのような問題は無いことと意識下に沈み、無いとする抑圧をあたかも過剰代償するように、暴力を超えたところで暴力の当事者たちの状況を理解しようとすることを拒否し、「万事快調」とする・したい人たちが多くなっていることではないだろうか。
暴動の火は世の中は万事快調であり、社会の表面はつるつるとなめらかであるとすることが欺瞞であると炎上させたのであった。