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祖母が残した戦争体験を記録した手記 「ある母の道」#19

 恵子も栄子も数え年六才になり、留守中も二人で良く遊び、大家のおばさん達にも可愛がってもらい、仕事に出掛ける私は本当に助かった。
昼食は家で子供と一緒に食事をした。薫も里の母にあずけて長く、もう二年生になる。いつまでも迷惑をかけていられず転校さすことにした。
岩国に帰っても友達が居なく寂しがり親許に行きたがった。土曜日の夕方汽車にのせる。柳井駅まで母が出ていて連れて帰り、翌日の夕方に岩国に帰ってくる。こんな繰返しをかなり長い間続けたが、その内学校にも馴れ友達も出来てくると行きたがらなくなり、ホットしたものだった。

 この頃になると物資は不足し店には品物がなく皆んな閉店していた。開いている店といえば時々一人何kgとか一家で何升とか量が決められて販売される配給ものばかりで、その配給ものも、お金の有る人は他人の分まで買って行くが、私はその受けられる配給品さえ十分に買うのが出来なかった。食べて行くのにやっとの状態なのであったのだ。

 現在の生活と比較した時、本当にあの苦しい時代を母子五人良く生きて来たと思う。それはやはり周囲の暖かい思いやりが有ったからだと考える。殺伐とした時代であったが、人間としての真心は失ってはいなかったのだと。皆んな食べる事に懸命であった。

 田舎へ、着物、帯、洋服日頃身に付けない物を、リュックに詰め、米、イモ、大根など食べられる物なら何でもと交換する。
いわゆる闇買いである。その様な買出しの人で、汽車は満員であったという
時々、管察の人が検査をし、闇買がわかると没収されるそうです。私には闇買なんて、とても出来る相談ではなかった。食べる事といえば辛い悲しい思い出が甦る
魚の配給日があり皆さん魚を求めて魚屋さんに行かれる。
私は行かない、金がなく買えないのだった。あきらめてその日は会社に行った。
一日が終り家に帰ると、四人の子供が魚をもらったと喜んで話す。見れば爼の上に生きのいい鯖が一匹のっている。井本のおばさんにもらったのだという。
さっそく三枚におろし、中の骨はだんご汁に入れ、四分の一わて食べさすと「旨いなー薫はこんな魚がいっぱい食べたいよ」と薫はいう「そう今にいっぱい食べれるよ」受け答えをしながら胸のつまる思いだった。

 そんな環境の中でも四人の子供は病気一つせず元気に育ってくれた。

 戦争が済んで早くも一年、戦地から大きなリュックを背にして、引上げて来れる兵隊さんの姿を多く見かける様になった。

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