祖母の残した戦争体験を記録した手記 「ある母の道」#14
家に帰って驚いた。防空壕に用意していた蒲団三枚全部無くなってる。
大家さんの所では蒲団上下と鍋、釜が無くなっているというこんな混乱とした時、人の物を盗むとは何と情けない人が居るものだとつくづく思った。
午后は何も手につかずぼんやり過した。
夕方になって二、三軒先の家で大声で怒鳴っている声がする。五、六人の兵隊さんが吠えるように怒鳴っているのだ。「日本は負けるものか、負けたのでは無い何かの間違いだ、負けたなんて云ったら承知しないぞ」そんなに云っている。目からは大粒の涙をぼろぼろこぼしながら、事実を認めないのだ。
いや、認めたくないかも知れない。兵隊さんも可愛そうにそのように思うと私も涙が出る。その家にどうして兵隊さんが来て怒鳴ったのか知らない。
薄闇の中で目を開きじっと考える。寝つかれないのだ。
昨晩までは、それ空襲だ、電灯を消せ、待避だ、防空壕だ出たり入ったりで大変な時間なのに静かだ。物音一つしないひっそりとした夜だ。
又、何か起りはしないだろうか、もうこりごりだこんな事は、でもこの先いったいどんな事になるだろう。昼間の考えたことのぶり返しだ頭が冴える。今度は今までの事が走馬灯のようによみがえる「カアチャン、オシッコ」恵子の声で目が覚める。窓の外は明るい。昨夜はおそくまで寝つけずにいたがいつのまにかねむったのだろう。側では栄子も幸枝も口をポッカリ明けて気持ちよさそうに寝息を立てている。恵子はオシッコをすますと又寝てしまった。三人の寝顔を見て神様、仏様どうかこの子供達をお守り下さいませ。両の手を合せてお祈りをする。
朝食の支度にかかる。おか湯にサツマイモをたくさん入れてイモがゆである。
その中に麦粉の団子を入るのだ。こんな食事でも美味しく食べた。
今、思い出しても懐しい物資の豊富にある現在でも当時のあの美味しい味付けは出来ないだろう・・・・・・そんなことを思うと可笑しくなる。
子供が起きて来て「母チャン、もう防空壕に入いらんでもいいんじゃろ、良かったねー」嬉しそうに話かける。防空壕、暗い小さな穴蔵に入るのは子供心に不安だったのだろう。一寸不憫な気持になる。
先日の爆撃で駅当りや、川口、手崎の方がひどくやられたと聞く。
どんなになったのか見に行こうと云うことになり大家のおばさんと節チャンそれに私達と六人で出かけた。人絹町に沖井外科病院がある。大きな病院で現在も続いている。その病院は空襲に合わずにそのままであった。その建物の角を曲り手崎から駅の方向を見てびっくり、二日前の様子は跡形もなくどこがどこやら何が何だかさっぱりわからなくなっている。
高い建物など有り駅が見えなかったのに、家が無く駅も無くなり、室ノ木当りが直接見える。何と広く感じたことか。恐る恐る子供の手を引き歩く。所々に高い盛土が出来ているので登ると盛土の向うには直径十五メートルはあるだろう鉢形の深い深い穴が出来ている。
大形爆弾が投下された爆弾跡だそうな。
進につれて道が寸断され盛土と穴だらけとなる穴を避け盛土を登りあちらに廻りこちらを廻って進むのである。
穴に落ちたら大変、蟻地獄を大きくした様で深い穴である。水が溜っているのも有り、夜落ちて死んだ人もあるとか。
犬、ねこ、にわとり、馬、動物の死骸がそこここに転がっている暑い夏である。
物が早く腐る時期でもある。二、三日しか立っていないのに腹は大きく膨らんで所々破れ蝿がぶんぶん羽を鳴らしたかっているその悪臭といったらたまらない鼻をつまんで見ない様にして通りすぎる。
あちらこちらで白い骨が目に付く。建物の下や土の中から掘り出した人を身内の人達が焼かれて持って行かれた残りだろう。