祖母の残した戦争体験を記録した手記 「ある母の道」#15
駅の側に食糧営団が有り、米とか麦を入れる倉庫が建っていた。
そこはめちゃくちゃに毀れ、米、麦、大豆などが散乱し足の踏場もない状態である。あんな所に人が居る。高い俵の上に大の字になって寝ている。事実寝ているのやら死んでいるのやら。散乱した大豆の中から人の足が一本出ている。破れた俵の下から米と一緒に頭を前にたれ這い出そうとしているように見えるが、なぜか手は反対側を向いている人もいた。荷馬車の腕木の下敷きになり大きくなった腹から汁が出て蝿が唸っている馬や、俵を荷馬車に積み込む途中だったのか、荷馬車に付けられたまま死んでいる馬も何頭か見た。馬主はどこへ行ったのだろうか、想像すると恐ろしくなった。
祖母がよく話してくれた地獄そのままの様な気がした。
私共の行った十六日は警察の人も居なく、この恐しい光景を見ている人達だったが、一夜明け十七日朝早くからこの倉庫の麦や米、大豆を盗む人が大勢現れ察の人が見張っていると云う事だった。
どちらを見ても家らしい家は見えない。有っても屋根はなく傾いて倒れかけている。ぺっしゃんこになった家、爆風で吹きとんだ家、あんなにたくさん建並んだ家の材木はいったいどこに行ってしまったのだろう。
幸校と駅に出かけた十四日の朝の事を思うと夢を見ている様である。駅周辺は穴、穴、穴爆弾の穴、まるで蜂の巣のようである。
この当りでは多くの人が死んだそうだが死体が見えない。
あちらこちらでたくさんの人がそこ、ここを掘り返してさがしている。
穴のそばで四十才を少し出たぐらいの男の人が手を合せ泣いている。一人息子が防空壕の中で生き埋めとなった。今掘り出されたので火葬の用意をしているところでした。
爆弾の穴に周囲から拾い集めた材木を並べ、十七、八才の小柄な男の子をその上に乗せている。息子さんを亡くされた、男の人が話されるには「この子と同じ防空壕で亡くなった娘さんが、今掘り出されたので一緒に焼いて上げようと思います。娘さんは宮島口の方の人だと聞きましたが、確かな事はわかりません。でも若い二人が同じ防空壕で死んだのも何かの因縁だと思います。」
寂しそうにそんなことを云っておられた。
掘り出された娘さんを見ると、モンペをはいて裸足、手は引掻く様に曲げて先は真黒くなっている。埋ずまった時、どうかして外に出たいと防空壕の壁をかきむしったのだろう。可愛そうにふびんなことだ。
戸板にのせた娘さんを、火葬する穴の木の上でくるっと返す、すると落ちた娘さんは木の上でポーンとゴムマリの様に跳ね上った。こんな火葬の仕方に驚いているのに、落した死体がポーンと跳ね上がるさまを見た私達は、たまげたの何の「ギャアー」と飛び上がった。
長く見るに忍びず手を合せ立去った。しばらく行って振り返って見ると煙が立ち登っていた。