日本で神経症といえば、最も多いのが対人(社会)恐怖症、次に不安神経症である。 対人恐怖症は、目上の人(先生、上司など)と接するとき、人集団関係の中で、そこに差し迫る恐怖-たとえば刃物を持った男が自分に向かってくるなど―がないにもかかわらず、あたかも自分が殺されるのでは、というような驚愕、パニックに襲われたりする。 この時の彼の恐怖とは、自然のではあるが他の動物にもあるようなシンプル恐怖ではない。動物にもあるシンプルな恐怖とは、一寸の虫にも誰にでも自然生命を持ち合わせているの
2024年、10月19日前後、M7,3前後、の大地震が発生する恐れ、 場(空間)は今のところ不明、トルコ当たりかもしれないがわからず、確率として時間が約50%か、津波などに万全の注意を、お気を付けください。
「100年私の傍らに座って待っていてください、きっと会いに来ますから」と言って死んでしまった女とは誰のことか。 漱石25歳の時、親友正岡子規への手紙の中に、懐妊悪阻の病にかかり、子とともに25才で亡くなった嫂嫁登世のことが書かれている。「あれほどの人物は男にもなかなか得やすからず。、、社会の一分子たる人間としてはまことに敬服すべき婦人候ひし、節操の毅然たる、性情の公平正直なる、細事に頓着せず、生まれながらの悟道の老僧のごとき見識有」などと絶賛した。 このことから上記「100
昭和の知の巨人の一人吉本隆明は、「漱石の「夢十夜」は宿命の物語である。人間の宿命はどこで決まるか、第一に母の胎内か、1歳未満の時の母との関係の中、つまり無意識の基底のところで決まる。それでも宿命は生涯決定要因ではなく、人間の場合自分の人生を超越的変化できうる、そのことが人間にとって生きることになりましょう。また夢の話が彼の乳幼児期にかかわる宿命としてだけでなく人間の歴史の乳幼児期、つまり民話、神話などとどこか糸でつながっているものです。」 吉本の宿命論は、相反する2つの
彼(漱石)の頭の中では、「不快そうに寝ている彼女の体たらくが癪に触ってたまらなくなった。」「つまりしぶといのだ」強烈な憎悪の光のような、こんな言葉が細君のすべての特色でもあるかのように、深く刻みつけられていた。 現実の世界で妻(響子)は、このような修羅場に出くわすと、決まって神経症ヒステリー発作を起こして気を失うのであった。 「どうせお産で死んでしまうのだから構いやしない」と言って、ある晩黒さやかみそりを握ったまま、大きな目を見開いて天井を見つめている妻がいた。「馬鹿な真似
自然(人間も動物も)の欲望を突き詰めて考えると、次の三つがある。 第一に自個の身体をどうやって長く健康的に維持できるか、第二に自個と異性,家族との関係をいかに良好に維持し,そして子孫をいかに末永く繁栄させることができるか、第三に自個と他者の関係、また自個と集団(地域、民族、国家など)との関係をいかに良好に維持することができるか、である。 漱石の夢「第一夜」は、上記第二に属する。その夢は、最も人間の本質の心が含まれたものであるらしい。しかし、私たちの住む資本の自由主義社会
人間とは何か、を考えるとき、肝心なのは他の動物には全くない人間だけにある何か、である。その何かとは、一つは神のエネルギー=精神の欲求する心である。 精神とは、他の動物には全くない人間だけが持つ心である。何故そう言うことが言えるのか。鳥は生きるため巣を作り、死後墓は作らないが、人間は生きるため住居を作り、死後その遺体を葬り弔い墓を作る。 人間は動物と違い意識が二重化されていることによる。二重意識とは、一つは動物にもある死を意識する自然の恐怖心、もう一つは人間だけが持つ死の恐
「苦しんで、あえいでいる人たちを助けなさい」=「神の声」を聴いて以来、強い宗教的使命感にとらわれたナイチンゲールは、1853年~1856年(ナイチン33才―36才)のクリミヤ戦争(英、仏,土対露)で 38人の看護婦たちとともに不衛生、過酷でハードなしかし献身的な看護を必死に行った。その結果自軍の負傷兵達約8000人の命が救われたのである。 ところがあまりのハードで慣れない労働の故か、看護婦たちに過労死が続出、またナイチンもコンゴ熱病、心臓発作も引き起こすなど、宗教的使命感の
神経症とは自分の本質の心である”不安”にとらわれ、言い換えると葛藤苦が習慣化されることである。 ナイチンゲールは16歳の時、”苦しんでいる人たちを助けなさい”という神の声を聴いて以来、その声にとらわれ、反対する家族や他者の声には全く耳に入らず、いばらの道ー当時下層社会の人達の仕事としてあった看護婦への道・1853年のクリミヤ戦争におけるばい菌、ウジの沸く不潔な野戦病院での看護-へと進んでいってしまった。 もちろん看護婦は、ナイチンだけではなく、彼女が選んだ38人の看護婦たち
上記には①「神経症とは何か」、②「人間とは何か?」 ③「本質の心とは何か?」の三つの究テーマが含まれている。なぜか、 「戦争を世界から根絶するためには」、上記三つの根本的解明が必要だからです。しかし現在のところ上記三つとも未だその解明がなされていないようで、弱智、弱能の身ながら挑試たいと思います。 先ず②「人間とはなにか?」(①「神経症、、」は別枠で)について ②については、「人類の発生」から科学として問わなければならない。現在人類学、考古学では、何時、約700万年前、誰
ナイチンゲールと漱石、二人はいずれも神経症タイプと思われ、他者対照比較関係してみると面白い。 まず彼女は裕福な家庭の中、親特に父親に大事に育てられ、もともと知能、感性に優れていた中、他者(父)との関係が良好だったと予想される。 一方で彼女は言い出したら聞かない頑固さも持ち合わせていた。 彼女が5.6才のある日、一人で家の近くを歩いていると、足を怪我し血を流して歩けないでいる子犬を見つけた。しかし助けようにも自分の幼女の身・力ではなすすべがないとすぐに分かったナイチンの行動
[新設-ナイチンゲールは(本)神経症だった-]ー① 1820年生の英人、フローレンス・ナイチンゲールは、少女、若年の時、部屋数40もある大邸宅を2つも持つ超裕福な、物質的に何不自由もない生活を送り、両親の教育熱心の下、文学、数学、語学など熱心に学び知識、感性豊かな聡明さを身につけ育った。 16才の時、彼女の心に転機が訪れた。”苦しんであえいでいる人たちを助けなさい,,という”神の声,,を聞いたのである。 なぜ彼女は、そのような類稀な天からの声を聴いたのか。
神経症を考察するにあたって、①「人間と動物の本質的違いとは何か」が非常に重要な問題を含んでいるのでは、と思われる。 ②「神経症の持つ ”恐怖,,と”不安,,の心は動物の持つ恐怖と不快の心とは全く異質の心である。 ①と②から神経症の持つ”恐怖,,と”不安,,は、人間(人類)が大昔(700万年前頃)動物から天変地異(氷河期)などによって、種の疎外進化により類(種の一段階進化したもの)へと変化をとげたものであった。 いや、細かく言うと”不安,,と"類恐怖,,は、同時期のものでは
神経症には、現在日本では4種類,①対人(社会)恐怖症、②不安神経症,③強迫観念症,④パニック障害がある。 日本で最も多いとされるのが⓵対人(社会)恐怖症である。目上の人や人集団の中で、そこに刃物を持った男が自分に向かってくるなどが全くないにもかかわらず、異常な恐怖状態となる。つまり恐怖症の恐怖というものが、普通言われているものではなく人間だけにしかない恐怖情動(心)かと思われる。 私の見方は、「不安」というものが私たち人間の持つ本質の心からくるものであり、だから②不安神経
日本における神経症治療の第一人者といえば、現在も故森田博士(精神科医)である。森田は言う「病気を治すには、その人の人生を全うするためである。生活を離れて病気は何の意味もなさない。{角を矯めて牛を殺す}などまことに悲しむべきことである。」 近現代医学が身体部分治療にばかりに目を向け、一方で体全体や心の治療は薬ずけにしていることに警鐘をならしているようです。 さらに森田は「病気は、つねに必ず身体的と精神的との両方面がある。ある患者は軽度の心臓弁膜症があった。この患者が3.4年