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何回観てもいいもの。例えば『秋刀魚の味』の”軍艦マーチ”とか
”何回観ても楽しめるもの”について考えてしまう。
そういう風に古典落語を演りたいし、そんな新作落語を作りたいと、最近になってことさら強く考えるようになった。
客席から落語を観ていたとき、「この人のあのネタ、もういっぺん観たい」と思うことは多々あった。というか今でもよくある。
何度聴いてもいい音楽は、やっぱりすごい。
逆に何度も聴いた定番の曲の方がライブで盛り上がるし羨ましい…と思ったが、これはこれで「知ってる曲」ばかり求められて、自分がやりたい新しいものを簡単にできない辛さもあるんだろうなと思う。
こんなことを考えるのは、十月と十一月の小津カレンダーが遺作『秋刀魚の味』で、久々に観返したから、というのもある。
(小津カレンダーについてはこちらで触れております↓)
『秋刀魚の味』を観たのは十年以上前だっただろう。以来、観ていない。
そのときも良い映画だとは思ったのだが、そこからずっと記憶に残っていたのが、物語中盤の「バーの軍艦マーチ」のシーンだった。
他の場面も当然ながらおぼろげに覚えてはいるのだけれど、「『秋刀魚の味』=軍艦マーチ」というくらい、音楽でいうサビが強烈に印象的だったため、そのサビをもう一回味わいたくて観返したのだ。
この映画は”父と嫁に行く娘”というザ・小津映画的物語なのだが、「さびしい」「ひとりぼっち」という台詞が粒立っているように、”人間は絶対的に孤独なものである”&”人生においてその孤独とどう相対していくのか”というテーマが根幹にある。
そして、肝心の中盤の「バーの軍艦マーチ」のシーンを観たとき、涙が溢れてしまった。なぜだろう。楽しいシーンなのに昔も泣いた気がする。
このシーンに至るのは、笠智衆演じる主人公の平山が、学生時代の漢文教師で現在は寂れたラーメン屋の店長”ヒョータン”を訪ねる場面からである。
同じくヒョータンの店に来た青年・坂本にいきなり「艦長」と呼ばれた平山は、その青年に平山が駆逐艦の艦長だった頃の部下の一等兵だったと名乗られて、彼に誘われてトリスバーに行くのだ。
この坂本という人物が愉快で、そして”強い庶民”でいい。
「艦長、日本はなぜ負けたんでしょう」
「勝ってたらどうなってたんでしょう」
「我々もニューヨークですよ。あいつらが髷を結って…」
負けてよかったじゃないか、そう平山に言われると、
「そうかもしれねえ、馬鹿なやろうがいばらなくなっただけでもね」
平山が”馬鹿なやろう”ではなかったことを付け加えて、実にアッケラカンとあの戦争を語る。その後、件の軍艦マーチのシーンがやってくる。
このシーンが泣けるのは一見幸せそうな、家庭も仕事も順風満帆に見える平山が、他のシーンでは一切戦争の話をせず(艦長だったことが劇中で発覚したのも上記のヒョータンの店の場面)、戦前からの知り合いである学生時代からの友人とも家庭の話や猥談、冗談しか語れないのに、この場面でだけ親しい人にも知れない深い孤独を抱えていた一面を見せたからであり、戦前/戦後で分裂してしまった日本人が今でも深く感情移入できるからだと思う。個人の小さな孤独に現代人の大きな孤独が重なっている。
また、このシーンの直前、二人が去った後のヒョータンの横顔のショットと、それに続く彼の店の看板のショットが中盤のサビであるこのバーのシーンに見事に繋がる。
なぜならヒョータンも、戦前、平山たちが学生の頃は居丈高な漢学教師であったらしいのに、今ではかつての生徒の前で卑屈な態度しかとれず、寂れた中華屋の店主をやりながら(坂本に「まずい店」と言われても愛想笑いしかできない)、娘を嫁にやらずに手元に置いていたせいで娘との関係も良好ではなく、ひたすら孤独に包まれている人物だからである。
観終わってからしばらくして、このシーンとそして終盤のクライマックスを観たくなって、また観返して泣いて、軍艦マーチのシーンだけまた観返してまた泣きそうになっている。
『秋刀魚の味』の話ばかりしてしまっているが、自分にとって”何回観てもいいもの”というのはこんな映画のようなものだ。感情を揺さぶる部分がちゃんと盛り上がるサビでありながら、自然に、おしつけがましくなく、他の部分と無理なく接続している。他の些細な場面の、人物のやりとりの軽妙さやおかしさも細かくてたまらなく、それが”孤独”を際立たせることもあり、根底のテーマにも繋がる。陳腐な言い方だけど、神は細部に宿るのだと改めて実感した。
あともう一度言うけど、音楽や歌はすごい…
落語はハメモノ以外でBGMを安易に取り入れられないからずるいと思う。(うちの師匠はめっちゃ取り入れてるし、唄とか言い立てとか音楽的な要素は使うことはあるけど…)
『秋刀魚の味』みたいに音楽使ってる部分を強烈に覚えていて、「もういっぺんあの映画観たい」って思う映画めっちゃある気がする。
モーリス・ピアラの『ヴァン・ゴッホ』のダンスホールの場面、ベルトルッチの『孤独な天使たち』のスペース・オディティの場面、カラックスの『汚れた血』のモダン・ラヴの疾走…ずるい。
ここまで読んでくださった方で自分にもなんかそういう場面があるって方はぜひ教えてください。
『ホーリー・モーターズ』のここも何回も観てしまいますね。