映画「怪物」の感想と分析 前編
皆さんは絵画や音楽、映像作品などを鑑賞した際、「感動」したと思ったことはあるだろうか。僕は、ある。
2023年7月13日新宿東宝シネマズ、故坂本龍一作曲の「Aqua」とともにエンドロールが流れる中、人生で初めて映画を見て泣いた。正確には初めてではないのだが、今までのそれらはいわゆる「感動」映画であったため、ノーカウントにしておくことにする。いうなれば誰かが死んでしまうような、涙する理由が明確な映画とは違い、それは理由のわからない涙だったのだ。終演後、ほほを涙が伝う感覚と、「受け取ってしまった」という感覚、それらだけが残っていた。
映画が終わったあと友人に「これ、俺の人生一番更新した」と高らかに告げ、興奮冷めやらぬまま家に帰った後も母親に当映画のすばらしさを熱弁した挙句少し引かれたのだが、それほどまでに本作ほどの衝撃はすさまじいものだった。
「あ、自分にもこういう感覚ってあるんだ」とよく知りえるはずの自分の感情の新たな一面にワクワクしたものの、偶然にも萌芽してしまったこの感情を、言語化したり誰かの理性的な言葉で固められることで陳腐にしたくないという思いから三四か月は一切の外部情報を遮断し、考察などは控えて浸っていた。しかし、僕は弱いもので自分の感情に名前を付けたくなってしまった。
本稿の目論見
さて、本稿の目論見だが、本作のミカタに関する「示唆」を提示することが主である。というのも、ともに鑑賞した友人を含め、他3、4名ほどの感想を聞いてみたところ、私とは異なる観点に重きを置いていたことがわかり、当映画の監督に対するインタビューを複数拝見したところ、私と近しい回答も見受けられたのだ。そこで、それらをベースに、「この映画、こういう見方もできるらしいですよ!すごくないですか!この映画!」と共有したくなったというのが第一である。
また、副次的な目的として自己の満足を満たしたいというのも正直なところ。「好きな映画について語りたい!」というのと「思ったことを文章として残したい!」的な。
まあ。一言でいうと
て感じ。
そこで、上記を踏まえ、本編を前後半に分けたいと思う、以下の通りだ。
前編→感想パート。インタビューを見て得た知見は一切介在しない
後編→示唆パート。インタビューを見て得た知見を基にそれらを共有
前半では個人的感想のみのため思ったままに書いてるが、後半は理性的に淡々と書いてます。
※1.面白く読めるようにはしたつもりだが感想パートは正直なっっっっっがい。一方おそらく読者諸君が求めている「怪物とは何だったのか」などの物語の革新に迫るような部分は後編に付してある。よって、お前の感想とかどうでもいいからはよ肝心なこと言え、という方は流し見ぐらいにして後編を待ってほしい。それか「本作の『意思』とは」と「結論」だけでも見ていってください!!結論は見て!絶対!
※2.本稿は映画を鑑賞したうえでの個人的感想とインタビュー映像や記事などの第一資料等のみを参考に書きます。YouTube等の解説は見てません。あとネタバレは普通にします。
映画を見るうえで
※3.本編に関係ないと思うが、感想を述べるうえで自分の映画のミカタを共有することで「こういうミカタしたから感動したのね」という因果関係の「因」をこさえるパートだ。どうかお付き合いいただきたい。
感動とは?
冒頭で皆さんには感動した経験はあるか?と投げかけたが、思い浮かぶような経験はあるだろうか。個人的には一概に感動といっても種類があると思っていて。登場人物に感情移入し、「共感したから」なのか。豪快な絵や日体大の集団行動のような迫力ある光景に「圧倒されたから」なのか。
非常に聡明な友人とこの映画に関する談議をしていたところ、彼は映画「ボヘミアンラプソディー」で涙したという。そのきっかけを彼は『昔よく聞いていたことを思い出し、自分のバックグラウンドと「共鳴したから」感動したのかもしれない』と語っていた。そう、感情が動いたから感動なのであって、ベクトルは様々だ。悲しいことだけが感動ではない。
ただ、今回は「共感」ということにフォーカスして考えたい。共感して感動する、となると最初に思い浮かぶのが登場人物の大切な人が亡くなる、などの悲しい感情に共感する場合だ。しかし、極端な話をしてしまうと登場人物と同じような経験をしたことがない人以外がその際持ち得る感情はある種「同情」に近いものだと思う。それが低俗な感情などでは全くない。ただ、過去や現在の自分の感情と劇中の人物の感情が同じ土俵で「リンク」するようなものではないのは確かだ。なので、一概に共感といっても「過去に持っていた、もしくは現在進行形で持っている感情とキャラの感情が同じだった」ことと「キャラの気持ちになって考えてしまい共感した」ことは今回区別して考える。だがどちらも感動のトリガーになることは言うまでもない。
本作の構造(テーマと意思)
さて、映画を見たうえでの情動を分類したところで、この映画自体も要素に分解してみよう。この映画が一体どういった構造で成り立っているのか?という問いを立てた時ある二つの要素からこの映画が進行していたのではないかという仮説を立てた。それは「テーマ」と「意思」だ。このフォーマットはすべての映画に当てはまる考えではないと思うが、この映画を関してはこの分析が個人的にはしっくり来たし、一部の別映画にも当てはまるのではないだろうかと思う。では映画のテーマと意思とは?思うに。。
テーマ
作品全体のなかで流れる「伝えたいもの」、「外縁」という定義を個人的に持っている。作品によっては「黒人差別」(Get out)だったり「人間の愚かさ」(Seven)だったりする。本作においては『「偏見」「固定観念」「思い込み」が人を抑圧することがある』、ということ。
意思
そして、これこそが私が本作に感動した原因といまになってはおもうが、意思とは「テーマに乗せて制作側が伝えたかったもう一つのテーマα」だと思っている。
テーマと意思のどちらが大事ということはない。実際、「テーマ」自体が「意思」と一体化している場合もあるだろう(子宮に沈める、セブンなど)
ただ、本作においては明確に分岐していると考えた。当時は。なぜなら本作は「テーマ」とまったく異なるテイストで終わりを迎えたからだ。
さて、以上は映画を見たのちに結局なんでこの映画で感動したの?この映画ってどう作りになってんの?という問いから導き出された答えだが、先に行ってしまうと私はこの映画の意思に感動した、と思っているため、今後の説明のために付したつもりだ。
映画の概要
映画怪物は2022年6月2日公開のドラマ映画、予告を見てもらえばわかるが、謎のサスペンスあおりがすごい。以下動画と時間のない方のためにFilmarks から引用。
https://youtu.be/S3XB1sFhQiA?si=vbDCNA5HGOlft8o3
感想
感想を書く意味に関して
前述では自己満足のために感想を書きたいと述べた。だが、実は本稿の作成のためにインタビューを拝見したところ、インタビューに書いてあることが自分が気付かなかったことを含めてすべてを語っていることに気づいてしまったのだ。そりゃそうだよね、だって作者だもん。で、「これ、インタビュー読めばよくね?」となってしまった。そう、単なる”個人的”解説文では歯が立たないのだ。そうすると本稿の存在価値がなくなってしまうため、彼らの言葉の代弁ではなく、個人的な感想を書くことでそれとの差別化を図りたいというのが本音である。加えて、自分の情動それ自体ととそれを体系化させる5W1Hを、すなわち「いつ、どこで、なんで、どれに、どのように」感動したのかを分析することで、なぜ感動したのか?を突き止めたい。「自分の感情に名前を付ける」ということかな。
本作の「意思」とは?
本作の「意思」が何であるか。本作鑑賞後、第一に持った印象は「子供の成長」もしくは「もやもやしたものが振り切れるイメージ」だった。(しかし前者はのちに誤った表現だったと気付く、後編で解説)なぜこれらに行きついたかというと答えは映画のクライマックスにある。まずはそのクライマックスに至るまでの道程から説明しよう。
製作者は、そのクライマックスに至らしめるために意図的に子供たちに対する「妨げ」を二通り用意していたの思われる。それは。
1.
湊個人に対する妨げ→主に学校の先生(瑛太)や母親(安藤さくら)による言動。「男らしくありなさい」「お父さんのような男になりなさい」等。しかし個人的に恐ろしいところはお母さんは本人のためを思って言って言うということ、決して自己満足から出る言葉ではない。。一方、、
湊の願望→親の期待にこたえたい
実際の湊→男の子らしくない。
結果、「やりたいこと」と「できること」が別のベクトルを向いているためうまくいかず葛藤に陥る。
2.
二人の関係に対する妨げ→こちらも言動と葛藤が原因。具体的には夜遅くに家を出た湊は依里と作った秘密基地に一人で行くが、あと少しで依里に会えたところで安藤サクラが「保護」してしまったシーン。子供たちからしたら「邪魔」されたわけだが、これも前述と同様、親目線からしたらわが子が夜遅くに暗い森をほっつきまわっていたら血眼になって探すのは至極当然だ。これは行動それ自体が物理的な「妨げ」となっている。
また、本作は子供の同性愛をテーマの一つとして描いているのだが(個人的にはあまり「同性愛」といった言葉でまとめたくない。彼らのそれの延長にその言葉はあり得るだろうが、彼らのそれはもっと根源的で「憧憬」に近いものを感じた)湊が依里に対して友情以上の何かを感じてしまったとき、これは果たして自分が持ち得ていい感情なのか?という問いが生まれ、やはり前述同様葛藤に陥ってしまう。
以上のように、外からの働きかけが湊が内に葛藤をはらむことの契機になってしまった。そしてこの葛藤こそ、私が「もやもやしたもの」と形容したものである。さて、この妨げを受けながらも、湊個人の心情の変化とともに二人は友人として、もしくはそれ以上のものとしての関係を深めていく、いや確かめていく。そして物語はクライマックスに至る。
ここで、湊の感情の変化と二人の関係をラストまでの時系列のようにしてみよう。以下の通りだ。多分ちょっとごちゃってるけど。
時系列
・夫と死別した母親に父親のようになってね、と言われながら育てられる、期待にはこたえたいけど体が言うことを聞かない。葛藤
↓
・そんな中、星川依里にであい、親からの虐待を受けながら「自分の世界をもって突き進む依里」にあこがれるようになる(個人的には依里の顔を見ながら行動の真似をしてみたりしているシーンにすごく共感できた。好き)
↓
・依里からの恋愛?感情を受け止めきれず彼を拒絶してしまう。葛藤
↓
(この辺から大人のシーンと子供のシーンは完全に遮断され、「ほとんど」交わりことはない。子供たちは自らの世界を育んでいく)
↓
・二人だけの時間が流れる。見つけたバスを「基地」にし、二人の色で彩り、「出発」へと向かう。
↓
・あらしのよる、二人はバスに乗り込み、「出発」した。バスを発見した大人たちは必死に呼びかけるが二人は中にはいない。なぜなら二人は大人の目になど目もくれずその地下道から大きく開けた道と、門(これより前に「この門から先には行けないんだ」というシーンがある)を抜け、二人の幸せを獲得する。
おしまい。
さて、ラストのシーンに多くの友人は「え、これ二人死んだくない?」と思ったということを後日知り、そんな見方ができるのか!と思った。確かに、冷静に状況を鑑みると、あれが「生きてる」ということのほうが難しいということがわかる。だって本来いるはずのバスにいないし、本来は嵐のはずが抜けた先は素晴らしく晴れてるし。
ただ、個人的には今まで述べてきたような「もやもや」が劇中ずっとあった。正直二人の関係をある種邪魔していた大人たちには鑑賞中ずっとイライラしていた記憶がある一方、二人がイイ感じになるとすごくうれしかった。きっとこの時点で感情が揺さぶられていたのだろう。そして、最後迎えたクライマックスで「イイ感じなんだから邪魔すんなよ!」と思ってた二人が大人に目もくれず笑顔で走り去り、以前は越えられなかった門も超えた。
「抑圧」のシーンと「本人たちの思い」のシーン、その対立の足跡だけが目に入り、たどっていき、目を上げたら、「思いを遂げる」シーンが待っていた、という感じかもしれない。なので、もうこの映画は用意されたゴールに向かって逆算して作られたもので、正直怪物とかどうでもいい、偏見がどうとかそんなこともどうでもいい、そんなものは本作の「テーマ」に過ぎない。本当に伝えたかった「意思」はそれから振り切れることなんだ、としか思えなかった。
感動の理由
さて、前項の「感動とは」において、「過去の感情と一致すると共感する」そしてそれが感動のトリガーになる、と述べた。そう、個人的には感動の理由は「自分の感情と湊の感情が似ていた」というのも要因としてある。
・「こう生きなきゃいけない」「こうあるのが正しい」という通念と自己の葛藤
・友人への憧れ、真似する。
ので、共感した彼の感情がにラストで恵まれたことが素直に「うれしかった」のだ。これが感動の原因だと思っている。
結論
「映画を見るうえで」の項のラストで「この映画の意思に感動した」といったが、より視座を上げてまとめてみると、『この映画の意思とは抑圧と自らの思いとの葛藤に悩む少年たちがそれを乗り越え、自らの幸福に至るということ。そして、私は自らの感情と似た主人公に感情移入し、少年の情動の変化に合わせて鑑賞中に感情が動いてしまった。ラストのシーンで華々しく突き抜けたすがすがしさとうれしさから感動に至った。』となる。
終わりに
以上が「感想パート」である。なぜ自分が感動したかを感情のまま0から話してしまったため6000字ほどに及んでしまった。期末レポートかよ。まあこのパートの意義自体、僕の個人的感想を書くことが目的なので、理性的すぎないほうがアジがあると思っておこう。次の「示唆パート」は努めて理性的に綴る予定なのでご安心いただきたい。
※4.後編の構想はできてますが「一切」執筆しておりません。留学中の身でほかにもやることが幾分あるため、しばしお待ちいただけると幸いです。