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心に刻む野球部時代の失敗

高校3年間は自分にとって宝物だ。

実力で120人以上の部内競争を勝ち抜き、
誰も期待していないところから、2年生でレギュラーを掴んだ。

自分のせいで負けた試合、自分の活躍で勝った試合、
どちらもかけがえない経験だ。

グラウンドから見える風景、部室の匂い、汗の匂い、
恐怖と期待の混じった緊張感、仲間とのくだらない会話・・・

2度の甲子園出場。

15歳で親元を離れた僕は、自分1人でなんでもやれるんだと
本気で思い込み、目標を一つずつ叶えていった。

きっとその成功体験は、死ぬまで心の奥底で僕を支え続ける。

オトナになってからの3年間なんて比べものにならないくらい特別で、
長い長い日々だった。

高校の話は今回はこれで終わり。

大事なのはここから先のお話です。

高校で目標を叶えまくった僕は、大学に進学し野球部に入る。
そして試練の4年間を送ることになる。

ステージが上がったことで、
これまでの努力の仕方、これまでのマインドで結果が出せなくなったのだ。

1年では、雑用や上下関係に怯える日々でとても野球どころではなかった。
2年では、少しずつ野球に気持ちが入っていったが「過去の栄光」に頼りすぎた。
3年では、同期・後輩に追い抜かれ、「過去一の努力」を試みるも時すでに遅し。
4年では、傷つくのを恐れ、理由をつけて頑張る方向を変えた。

正直やれる自信はあった。これまでの人生と同じように、
努力すれば必ず結果につながると信じていた。

しかし最後まで、望んだ結果は得られなかった。

なぜか?

振り返って整理してみる。

【1年時】

過去の記事には書いたが、小学校の文集で僕は入る大学を宣言した。
そして付属校に入る形でその目標を叶えた。
しかしそこに、「大学に入ってからの目標」は書かれていなかった。
つまり僕の脳は、大学に入るところまでしかインプットしていなかった。

現実に大学での活躍をリアルにイメージしていた同期は、
大学入学前から木のバットで練習し、野球部についての情報を集め、
動き出していた。
僕は入部するかさえ思い悩み、入部してから流れで目標となる先輩を決め、
その後の自分の4年間をイメージした。

受験して入部してくる同期は、1年以上前、浪人していた同期は
2〜3年も前から「大学での自分の姿」をイメージしながら、
野球や勉強と向き合っていたのだろう。

高校野球を引退した瞬間から、大学での逆襲に狙いを定め、
そこにかけがえのない時間を費やしてきたのだ。

僕は引退後、似合ってもない茶髪で友達と遊びながら、
時間を浪費していたのである。

そう、出だしの時点で僕の負けは決まっていた。


【2年時】

少しずつ雑用から野球に時間が取れるようになっていった。

※ちなみに後にレギュラーをとる同期たちは、雑用の合間で壁当てをし、
バットを振っていたが、僕は見て見ぬふりをしていた。

2年で1回はベンチに入って、
3年でレギュラー
4年でタイトル争いや選抜メンバー入り

入部してからとってつけたような目標が、
知らず知らずのうちに遠のいていく。

もちろん2年生で、結果が出ることはなかった。

努力が不足していたことは言うまでもないが、
最大の理由はそこではない。

僕は結果が出なかった時に、
いつも「高校時代の打ち方」を追い求めるという癖があった。
甲子園で歓声を浴びた時の、あの打ち方だ。

日々肉体は変わる、対戦する投手のレベルも変わる。
そんな当たり前のことに気づかないくらい、
「過去のよかった自分」を人は捨てられない

僕の野球人生最大の失敗はこれだったのかもしれない。

【3年時】


3年になると、「ベンチ入りメンバー」と「補欠」という
立場が明確になる。取り残される感覚が急に襲ってくるのだ。
そしてその時点で実はもう遅い。

4年になると就職活動だ、今年ダメなら選手として終わる。

「まずい」

僕は新チームになってから死に物狂いでバットを振った。
手首がバキバキになったし、年末年始のオフに地元に帰るのもやめた。
1月1日に、一人グラウンドで打席に立ってバットを振っていた。

「大丈夫、まだやれる、取り返せる」

呟きながら深夜にバットを振った。
しかし、短期間の努力で結果が出るほど、学生野球も甘くない。

そんな時期に、たまに母親からかかってくる電話は辛かった。

「体が元気ならそれでいいよ」と言いながら、
もうグラウンドで息子を見ることができない現実を確かめているようだった。
気づけば3年間、プレーを見せられていない。

「野球を頑張るだけで自分の周りが幸せになる」

僕にかかっていた魔法はもう、解けたのだ。

3年春のメンバー振り分けでも、僕が1軍に入ることはなかった。

ここでの僕の失敗は以下の2つ。

①「これだけやってダメだったんだ」と勝手に納得して諦めたこと
② 監督やレギュラーの先輩などに教えを請わなかったこと

まずは①について。

実は僕は「4年間公式戦出場なし」というわけではない。
3年春の公式戦、途中でベンチ入りして打席にも立っている。

しかし僕にとっては、誇れる出来事ではない。

「よかったな、頑張れよ」「応援してる」周りからありがたい言葉をもらった。

監督も僕の頑張りを認めてくださり、チャンスをくれた。

それなのにあろうことか僕は、「こんなにやったのにダメならもう無理だ」と
自分で勝手に決めつけ、気持ちを切らしていた。

気持ちが切れるとどうなるか?

誇張ではなく、本当にバットが全力で振れなくなるのである。
常に空腹状態のようで、全く満たされない。仕事でいう「やらされ状態」。

そんな奴に野球の神様が「結果」を与えるはずがない。
与えられた2打席は共に凡退し、僕は2度と1軍に呼ばれることはなかった。

なんともったいないことをしたのだろう。

あの正月の努力が報われるはずだったのに、
人生を変えるはずだったのに、
頑張った時期と認められた時期がほんの少しずれただけで、
僕は唯一のチャンスを手放した。

そして②について。

今でこそ、iPhoneで自分のフォームを撮影したり、ネットで正しいフォームや
練習法を調べたりできるが、当時は「感覚」で上手くなるしかなかった。

引退時の卒業VTRで自分の投げ方の汚さに衝撃を受けたくらい、
客観的な自分のフォームを見る機会は少なかった。

そして僕は、「自分の弱点が何」で、「どのように改善すべきか」と言う
当たり前のことを、監督や先輩に聞くという作業を嫌った。

「自力で1軍に上がれない奴がどんなアドバイスを受けても仕方がない。
 1軍に上がってから聞きに行こう」

こう思っていたからだ。これが大きな失敗だ。

今でこそ思うが、恥ずかしさや、申し訳なさ、周りの目などを気にしている
人間は、仕事において何も変えられない。

聞けば5秒で終わることを、いつまでも先送りにする。

もしあの時、監督に聴きにいっていれば、「弱点への正しいアプローチ」が
できたかもしれない。自分にあった練習法を知れたかもしれない。
1軍との差を、具体的にしれたかもしれない。

変な意地やプライドで、僕は「無駄な努力」を続けていたのかもしれない

【4年時】

最大の失敗は就職活動だがそれはまた後日。

4年の時点で、選手としてはもう終わっていた。
有望な1、2年が続々と対等し入り込む余地がない。

周りは腐って露骨に「やる気のなさ」を出している奴が現れた。
実はそう言う人間に限って一流企業に就職していたりする。

僕は流石にそれをやったことはない。
あからさまなネガティブな姿勢は「悔しさ」の裏返しだと思っていたからだ。

3年時の「気持ちの切れた状態」は、あくまで自分の心の中での問題で
グラウンドで周りに悪影響を与えるというものではなかった。

とはいえ、4年生ともなると22歳、立派な大人だ。
変わることのない現実を前に、「1軍を諦めない」という目標を
自分に課すこともできない。

僕は目標を小さく小さくしていった。

例えば、

「今日はバットを全力で100本振ろう」
「今日は誰よりも声を出そう」
「今日は打撃投手でいい球を投げよう」
「今日はランニングをとにかく全力で」
「今日はとにかくキビキビ動こう」

書いていて思ったが当たり前のことだ。
その当たり前のことが、人はできなくなる。

4年前に自分の描いた未来と今とのギャップに押しつぶされるからだ。
現実を受け入れることができず、「不要な存在」と思い込み、道を踏み外す。

そうならないために、身の丈にあった「きょうグラウンドに入る理由」を
僕は必死に探した。

4年時の行動は「失敗」とは思っていないが、
これまでのような「夢」「目標」を追っている時よりは遥かに虚しかった。

こうして僕の野球部での4年間は終わった。

引退の日は、寒い秋空。
涙と雨に濡れながら、後輩たちと最後の挨拶を交わし、
僕は苦しみから解放された。

3年時に公式戦に出場した時、急な昇格だったため、
親にユニホーム姿を見せられなかったことが、今思えば唯一の心残りである。


次回は僕のトラウマ、就職活動について書こうと思います。

最後まで読んでいただきありがとうございました!


















































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