我慢とは
現代の日常においても、頻繁に使用される仏教用語に「我慢」というものがある。ただ、この「我慢」という本来の意味は、今日一般的に用いられている意味とはだいぶ違ったものである。今日では、「辛抱する」といったポジティブな意味で用いられているのではないだろうか。本来は、決してポジティブな意味ではない。好ましい意味の言葉ではないのである。
中村元(1975)によると、下記のように説明されている。
七慢というのは、下記の7つである。
劣った他人に対して自分が勝っているといい、等しい他人に対して自分は等しいという「慢」
等しい他人に対して自分が勝っているといい、勝っている他人に対して自分は等しいという「過慢」
他人が勝っているのに対してさらに勝るという「慢過慢」
我あり、我が所有ありと執着しておごりたかぶる「我慢」
いまだ悟っていないのにわれは証得しているという「増上慢」
他人がはるかに勝っているのに対し、自分はわずかしか劣っていないという「卑慢」
悪行をなしても悪をたのんでおごりたかぶる「邪慢」
「我慢」はこの七慢のうち4番目にあたる。この「我慢」という語は、サンスクリット語の「アートマ・マーナ」の漢訳である。「アートマン」というサンスクリット語を漢訳したのが「我」で、「慢」はサンスクリット語「マーナ」を音写したものであろう。
「アートマン」というのは、バラモン教において個人の中心主体と考えられていた超越的な原理である。そして、それが宇宙の根本原理たるブラフマン=梵に他ならないとされていた。
ところが、仏教は無我説を主張して、アートマンというような超越的な原理を認めなかったのである。
そこで、自己の中心にアートマン=我が存在すると考え、それに執着するエゴイスティックな感情を「アートマ・マーナ」=我慢と呼び、軽蔑したのである。
ただ、「我慢」という言葉には、もう一つの原語が存在する。それは、「アハンカーラ」というサンスクリット語である。「アハム」というのは、「私」という意味の代名詞で、「カーラ」というのは「作ること」である。自分が存在すると考える特殊な機能、すなわち、自我意識のことを「アハンカーラ」という。これは、「サーンキャ」という哲学系の術語であるが、中国で「我慢」と訳された。
いずれにせよ、仏教では「我慢」という語は悪しき意味で用いられてきた。ところが、我が強いということで負けぬ気の強いことを意味するようになり、次第に頑張りがきくこと、辛抱することの意味で使われるようになったのである。
(参考文献)
1. 中村元『佛教語大辞典』東京書籍、1975年。