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映画「うみべの女の子」考察:小梅の見つけたもの。
※ネタばれしていますので、ご注意ください。
原作は読んでいないので、あくまでも映画についてのみの考察・感想です。
映画の大まかな流れ、構成
「私はその浜辺で、何かを探しながら歩くのが好きだった。湿気た花火とか、昆布とか、風に飛ばされた誰かの帽子とか。たいてい期待したものは見つからないし、もしかしたら初めから何も期待なんてしていなかったのかもしれないけど。」
映画はこんなセリフから始まる。
主人公の小梅は高校生にすでになっており、そこから過去に時間が移り。映画が展開していく。
しかし最後の場面になると、もう探しているのではなく、「見つけた。もっともっと大きな、海!」になる。つまり、浜辺・磯のほとり(文字通り彼の名前「磯辺」)で何かを探している状態から、より大きな海を見つけた(心の中の磯辺を手放す)という構図。
「浜辺で何かを探す」という行為は、彼女が無意識のうちに「欠如」を自覚していたことを示している。それは物理的なものではなく、「自分が本当に求めているものとは何か?」という問いそのものだったのだと思う。
自己中心的な自分だけの世界
→自分以外の他者の認識が出てくる(うみべの女の子や、磯辺の事情により小梅の思う通りにならない)
→彼の求めるものは何だろう?それになりたい。
→拒絶、喪失
→喪失を手放し、そこからの解放
陳腐な言い方だと、「小梅の成長」である。どのように成長したのか、より詳しく以下に書いていきたい。
※磯辺の心情に関しては、今回は意図的にほぼ触れていません。小梅の心情に当てている焦点をブレないようにするためです。
小梅の成長過程
自己中心的な自分だけの世界
小梅が磯辺に体の関係を持ち掛けたのも、先輩に振られて満たされない気持ちがあった。彼女は刺激を求め、何かを探していたのだと思う。浜辺で、自分の手で持てるくらいの大きさの(コントロールできる)ものを探すように。
そこに丁度良く磯辺の存在がいた。彼は都合よく自分のことを求めてくれる。彼なら小梅のコントロール下に置ける。埋まることのない欠如を磯辺で埋めようとしながら。
最初、磯辺は小梅のことが好きだがそれが受け入れられることはない。小梅と磯辺の性行為は激しめに描かれるものの、二人の間のキスは一度も出てこない。この後も「キス」は映画の中で重要な意味を持つ。
自分以外の他者の認識が入ってくる
小梅が「うみべの女の子」の画像を発見してから、それが気になり始める。自分にだけ向いていた磯辺の好意が他に向くことが嫌なのだ。
また、「俺ね、近々死ぬと思うんだ。(中略)俺、呪われてるんだよ、兄ちゃんに。」というところからも、小梅には窺い知れない内面が磯辺にあることを感じる。
磯辺の関心が私からこのうみべの女の子へ移るかもしれない。彼が死んで、私の側からいなくなってしまうかもしれない。
彼がいることが当たり前である状況から、彼がいなくなってしまうのではないかと思い始める。
ずっと私のそばに都合よくいて欲しい(磯辺を自分のコントロール下に置いておきたい)。その自身の気持ちに気づき始める。
彼の求めるものは何だろう?それになりたい
写真を勝手に消してから磯辺と会うことも減り、そのことで磯辺と喧嘩もしてしまい、ますます疎遠になる。彼がいなくなってしまうのではないかと思いがますます強くなる。だからこそ、彼が求めているものに私がなればいい、そう考えて「ちゃんと分かるように言ってくれたら、磯辺の嫌なところ全部直すから。」このような言葉が出るも、あえなく無視される。
寂しさを紛らわそうとして、寂しさ(欠如)を埋める何かを探し求めて、不良の先輩と会うことにするが、いざ先輩に迫られると逃げ出す。
小梅は友人の圭子と会い、圭子の鹿島への好意を聞く。
これを機に小梅は、磯辺以外では心の穴(欠如)は埋められない、先輩や他の人は受け付けないと気づいたのだと思う。
その後、磯辺の家に会いに行くも拒否される。素直になれず揉み合いの喧嘩になるも、「磯辺に会いに来たんだよ」と自分の気持ちを伝えることで、磯辺を一度取り戻す。
ここから共依存の関係になりそうになるが、磯辺側の理由により、そうはならない。それは、磯辺が寝ている小梅にキスしようとして、結局やめるところからも読み取れる。
磯辺は自身に対する無価値感に苛まれている。ここで小梅に「会いに来た」と言われ、そこに自身の価値を見出してまた肉体関係を持つ。
それでも、彼はその後の完全な共依存関係に持ち込むことをためらう。これはお風呂場での行為の後に、一緒に横なっているシーン(上記のキスをしうなかった部分も含め)でも描かれる。
小梅は、磯辺が自分から離れるようなことはあって欲しくない。だから、彼には彼自身の関心があることは知りつつも、では私が彼の求めているものになればいい、と明確に思い始める。彼の好みのタイプを尋ねたり、「もし寂しいならずっと一緒にいてあげる」と言うセリフにはそれが如実に表れている。
「私が彼の求めているものになりさえすれば、彼は私から離れないでいてくれる。」
この思いは、磯辺に埠頭で告白するも断られるところまで続いていく。
拒絶、そして喪失
磯辺に文化祭の日に渡そうと思って、素直に好きと伝える手紙まで書きプレゼントを用意する。
しかし、彼は文化祭当日にも学校に来ない。嵐の中探し回っても見つからない。小梅は彼が死んだのかと思い、喪失感を抱く。
別の日に彼を学校で見かける。別人のようにケロッとしている。
ホッとしたのもつかの間、彼に正式に埠頭で告白するも拒絶されてしまう。
最後のキスを求めるも、彼はそれも「最後までお前に振り回されるわけにはいかない」と拒否してその場を去る。何度呼んでも彼は戻ってこない。
小梅は、ここで本当の喪失を経験する。
磯辺は、完全に小梅のコントロール外に行ってしまった。
喪失を手放し、解放される
時は過ぎ、高校生になった小梅。
彼氏はいるものの、物理的にも精神的にも距離を保っている。磯辺のことが心にずっと引っかかっているからだ。
相手から常に求められる存在でいたい。そうやって自分の価値を確認したい。そのためには、相手の求めているものになろうとまでする。それでもなれなかった経験。
以前にお風呂場のシーンで「ねぇ、磯辺。してもしても何か足りない気がするのはなんでだと思う?」と言っているように、小梅は自身の欠如を埋めようとしても埋められないと感じている。その欠如を磯辺で埋めようとした。その欠如にピースとしてはまってくれるように、彼の求めるものになろうとするも、彼は結局去ってしまった。
この欠如をどこまでも埋めようとする気持ちが、冒頭の「浜辺で何かを探す」ような気持ちだ。ずっと何かを求め続ける気持ち。
しかし、磯辺のことで喪失感を経験してから、「欠如を埋める何かが見つかる」「そのために相手の求めているものに私がなる」と信じることが難しくなっている。
新しい彼氏に対しても同じだ。だから、試すような質問をしたりする。「大津くんは私のどこがいいわけ?」「あまり私に期待しないでね」「ずっと好きでいるって約束してくれる?」などと言い、彼氏とは距離を保つ。
その後、例の浜辺に戻り、磯辺の趣味であったろう古い曲を聴きながら、まだ小さなもの(カメラのカード)を探している。そこにいたカップルの呼び声も、以前に磯辺から呼ばれた記憶と被る。
まだまだ吹っ切れていないのだ。
そこに鹿島がたまたま現れる。
「もしかしたら甲子園行けるかもしれないんだよね。マネージャーとしてだけど。(中略)なんかさ、今の方が野球好きなんだよね俺。変だけど。だからお前もさ、慌てなくてもいつかそんな風に思える日が来るんじゃないかな。」
彼のそんな話を聞いてか聞かずか、小梅は先ほどのカップルがキスしているのを目にする。カップルとしての「キス」は、以前に小梅が得られなかったものだ。
ここで、カメラのフォーカスは「カップルのキス」から「海」に劇的に移っている。小梅は、カップルの裏に大きく広がる海に気づいた。小梅自身の視点が「磯辺との関係」ひいては支配・依存の人間関係ではないより広いものに移ったのだと思う。
求めていたと思っていた、欠如を埋めると思っていた「キス」(カップルのキス)。それが世界のすべてだと思っていた。
でも、そうではない、他の世界(海)が見えた。この「狭い世界から広い世界へ開いた」彼女の心情変化がカメラのフォーカスで象徴的に表されている。
小梅にとって「キス」は、自分が埋めることができなかった何かの象徴だったのだろう。しかし、カップルのキスを目撃し、それがある意味「自分が求めていたものではなかった」と気づいたことで、彼女は「求めること自体」から解放される。
彼女が「見つけた」と言ったのは、欠如を「埋める何か」ではなく、「埋まらないことそのもの」だったのかもしれない。
海は「満たされることのない広がり」を象徴し、彼女がそれを受け入れることで初めて「探すこと」から解放されたのではないか。
そんな風に私は感じた。