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読書という行為

読書が好きである。

本を読むという行為は勿論、本という存在そのものが好きである。

単行本、文庫などは言うに及ばず、雑誌や新聞、辞書や自治体の広報誌、さらには通販のカタログや家電の説明書に至るまで、紙の集合体が好きである。

幼少期から欠かすことなく読書という行為を続けている。読みたい、とか、読まなきゃ、とかいう感情ではなく、ただ読書を続けている。

基本的に自分の知識レベルよりワンランク高い本を選ぶ。文系なのに数IIIの参考書を読み、よくわかんねえのにピンチョンを読み、全くわかんねえのにドゥルーズ=ガタリを読む。

あら知的なのねアナタ、好みだわん今すぐ抱いて、と思うことなかれ。内容はあまり頭に入っていない。知識見聞を深めることが第一目的ではなく、私は「本を読む」という行為をするために本を読んでいる。

もう少し噛み砕くと、興味のある文字列の並びを目で追い、肌で触れることによって、まあ何というか、気持ち良くなっちゃうというのが目的である。
説明が面倒なので取り急ぎ、
「カミュを原文で読んじゃう私、ステキ」
「日曜の昼下がりにカフェでポストモダン文学、ウッフン」
みたいな感じと思って頂ければ良い。

難しい本は良い。読書は適度にストレスがかかるものであるべきだ。



しかし、何の本を読むべきだろう。
言うまでもなく、世の中には凄まじい量の本が存在する。
国会図書館の蔵書数だけでも、4560万9602冊あるようだ(令和2年度統計より)。とても読み切れるものではない。

これだ、あなたが運命の人よウッフン、みたいな本との出会いは100冊に1冊あるかないかくらいである。
だからとにかく気になる本は全て手に取り読んでみる。
そのため、実際に知識が身となるのに膨大な書籍代と時間が必要であり、著しく効率が悪い。
効率が悪いがこのやり方しかできないので仕方がない。

まあ実際問題、バキバキのマジックリアリズムのラテン文学や、「死霊」「嘔吐」「魔の山」のような哲学小説、超弦理論をはじめとする現代物理学、カントやハイデガー、イスラム史や東南アジア史などは、何度も読み直し、入門編から実践編までの様々な本を読み込まないと、居酒屋でくだを巻ける程に血肉とならない。さもないと「ライオンの卵がめちゃキュートでさあ」みたいなことを唾飛ばしながら言うハメになり、恥をかくことになる。

さて、本には相性というものがある。

著者や訳者の文体の癖やリズムは、内容の難易度や複雑性よりもよっぽど重要なファクターである。

平易で読みやすい文章でも、肌に合わず億劫になる大衆小説もあれば、暗号ですかコレみたいな難解極まる文章でも、なぜか頭に入ってきやすい哲学書もある。
ちなみに私はドイツ文学と妙にウマが合わず、逆にロシア文学とは相性がとても良い。前世はロシア人だったのかもしれない。


文章の句点読点、改行の位置、単語の取捨選択、助詞や接続詞により生み出されるリズムが、こちらのベースとなる「目テンポ」(文字を読む時のスピード)と近いか、近くなくてもお互いのテンポの公約数が求められる時、その読書は相乗効果を伴うセッションと化す。
既製品である本側が一方的に情報を投げかけていたはずなのに、まるでこちらのフィードバックを本が拾い、文章をその場で構成しているかのような体験を得ることができる。

まあこんなことは稀であるが、私の場合、安部公房の「カンガルー・ノート」にてこのような現象が巻き起こった。

初めは何てことはない前衛小説だったが、こちらが読むスピードを早めるとあちらも文字を早々と繰り出し始め、負けじとこちらも凄まじい眼球運動で、もはや動体視力で文字を追っていくが相手はそれを察してTwistaかお前はEminemかお前はというような、これまた凄まじいスピードで言葉を繰り出してくる。フォントが光となりうなりを上げて襲ってくる。それを虹彩でさばき水晶体で飲み込んでいく。明朝体と大脳皮質視覚野の正面衝突である。ストーリーはほとんど覚えていない。勝てる、もうすぐ終わりだ、とほうほうのていで最終ページをめくると、向こうがまさかの急ブレーキ、見事に体勢を崩されたところを凍えるような一文で殴打され、負けた。私は負けた。

気になる方は読んでみてください。上記のような小説ではありません。


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