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精神科にもうひとつの目 自意識は悪だ
精神科に行ってはただヘラヘラして、少額のお金を払って帰ってくる。休日はそれだけ。自意識という目が、私を強く監視する。
精神科というものが一般にどういうものなのかはよくわからない。
私は今23歳で、同じ精神科に10年近く通っている。何度か行くのをやめてしまったけど、再通院、再通院、の繰り返しで何もよくなっていない。
定期的に診察はあるけれど、うちは毎週のカウンセリングがメインのよう。毎週、同じカウンセラーさんに、ただ無駄な話をするだけ。
精神科に通院している人は、こういうのあるあるでしょう↓
ヘラヘラ雑談で金払う悲しさ
何が悲しいって、ただの雑談に時間とお金を使っているような気分になること。相手にも申し訳ないし。普段生活をしている時には、無数に悩み事、問題が思い浮かぶ。
ああ、これを相談しなきゃなって、思う。
でも、いざカウンセラーさんを前にすると、一週間のくだらない近況報告をして、 30分はすぐに過ぎる。眠るため、パニック発作を緩和するための薬をもらって、帰る。
私には勇気がない。
本心を生身の人間に曝けることなんて到底できない。こうして、読み手さえも想定せず、独りよがりに文章を書くことで精一杯だ。
カウンセリングは怖い。狭い部屋で、カウンセラーさんと向かい合わせになって喋る。多分、そういう訓練を受けているんだろうけど、彼女は私が口を開くまで、何も喋らない。
アイスブレイクに「髪の色変わったね」とか、声をかけてくれる。私は、自分の異常な精神状態について、最近起きたフラッシュバックについて、悪夢を見ることがあまりにも怖くて朝まで起きてしまったことについて、躁の時の自分が首を絞めてくることについて、なんとか話そうと思ってきたのに、優しさのアイスブレイクによって、閉ざされる。
沈黙も嫌で、突然暗い話をするのも嫌で(精神科に来ているのに!)笑い話をしてしまう。
これは一種の気遣いで、私はカウンセラーさんに、無意識に気遣いをやっている。でも、カウンセラーさんはきっと、プロだから「あ、こいつってそういう精神病だから、精神科に来てるのに、明るく振る舞おうとしてる」と思って、後でカルテにそんなふうに書いているんだろうなーと思うと、かなり不快な気持ちになる。
カウンセラーさんは、私を導いてくれない。もちろん、親でも神でも、上司でもないんだから。
固定化された関係値
精神科における1番のストレスは、医療従事者と患者との非対称性にある。私が精一杯何かをやっても、「こいつは精神病なのに!」と思われるのが嫌で仕方ない。そして私は「ああ、こういう被害妄想・自意識もちゃんと病気だな」と再認させられる。せめて、まっすぐに病気をやらせてくれ。
ただでさえ日常を破壊する自意識が、私への監視を強くするのが精神科で、その自意識を、さらにもうひとつ先の自意識が「ああ、自意識やってるな」と思う。自意識の連鎖に終わりはない。
例えば、予約の電話をするときに「今週はどうしても外せない予定がありまして、申し訳ないのですが、予約をキャンセルさせていただけないでしょうか?」とか言う。電話はハキハキ、簡潔に喋ったほうがいい。そういう「社会のルール」をちゃんと知ってるから。
でも、精神科で働いている人は「お、こいつ、精神病患者なのにめっちゃハキハキしててウケる!」と思っているかもしれない、と私が思う。
ミソは「私が思っている」ということ。それすらもわかっているということ。働いている人たちは、何も悪くないことくらいわかっていて、それでも自意識を止められない。
わかってるんすよ。誰もそんなこと思ってないって。私のことを監視してるのは、私の自意識だけであって、基本的に他者が私に興味ないって、仕事だから接しているだけだって、もうずっとわかってます。でも、自意識が強いことは、やめられない。
この医療従事者との非対称性を意識すると、私の自意識がむくむくと顔を出して、私を攻撃し始めて、私が私を攻撃している滑稽な事実を、私が笑う。私が多いねん。勘弁してくれよ。
精神科で喋るのは難しい
こんにちは。今日は相談したいことがあって、それは、とても死にたくてたまらないということなんです。もう、死ぬしかないと思うんです。
例えば、こんなふうに本音を曝け出すことはできるかもしれない。でも、この言語行為はSOSを含んでいる。明らかに。
簡潔に言い換えれば「助けてください」だ。では、私は助かりたいのか?「死にたい」と言っているのに、助けてほしいのか。かなり矛盾しているように思われる。
↓架空のカウンセリングをやってみた狂人回です
素直に「死にたいから助けて欲しいです」と言ってみれば良さそうなものなのに、そう言ったらどうなるのか、無数の可能性を考えてしまう。
「死にたいなら死ねば良い」「助けて欲しいなら、助かろうとしろ」「結局、精神病の自分に酔ってんだろ」「変わるのが怖いだけのくせに」「そもそも、治るのが怖いだなんて、治る前提で話してるの楽観的だよね」私が、私にそうやって言ってくる感覚。制御ができない。これって病気なんかなー。
私が誰かに、特にカウンセラーさんにそう思われるかもしれないことが問題なのではない。仮に、影でカウンセラーさんが「あの患者ガチでだるいんだよね。なんか自意識過剰だし、目とか合わせられないし、顔引き攣っててキモいし」とか言ってても、全然良い。
自意識は他者の声を想定していて、それに苦しんでいるわけではなくて、私が私として私を批判すること、そこにある種の安心感のようなものがあることが問題なんだ。
日常の自意識
例えば道を間違える。今来た道を戻らなければいけないとき、「お、こいつ道を間違って、引き返してるな」と思われると考えたら、何もできなくなってしまう。間違ってないふうの道選びをして、目的地に辿り着かなければいけない。
でもそれは、本当に通行人にそう思われたくないのではなくて、私が「誰かがそう思うかも」という自意識を過剰に働かせていることを認めた上で、その「私の視点」つまり「自意識」のために行動を変えている。
よく考えれば、私は常に自分を監視することによって生きてきた。他人にこう思われるかもしれない、と思いながら生きているようでいて、本当は自分がそう思っていることも知っている。でも、常に他者の視点を(私が)想定することによってしか行動できない。
架空の存在を立ててでも、常に他者に相対的に自分が在るとしたら、そんなに悲しいことってないな、とも思う。
私が私であることって、なんでこんなに苦しいんだろう。そして、私が私であることを、自意識である側の私が監視し、私がそれをも意識する。止められない最悪のループと日々。
完全に調子が悪い。それでも、精神科にお金を払ってヘラヘラしに行くだろう。休日を使ってまで。