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幻聴は世界の一部か?ー精神病の当事者研究ー

世界があまりにも不確かで、困る。なぜなら、幻聴や幻覚があるから。私が見ている世界は、果たして"実在している"のか、けっこう不安になる。

誰かに確かめてもらう形で、自分が見ている世界が「実在している」とわかっていたい。そんな欲求を思索する。


幻聴は世界の一部か?

実在する世界

私から開けているこの「世界」が実在していなかったら、なぜ困る?

まず、「実在する世界」(=おおまかには「客観的な世界」)ってなんだろう。
私の位置から観測可能な部分の外、つまり、画面の向こうの人間や景色とか。よくわからないというのが、本音だ。ベタベタと身の回りにあるものを触っていけば、世界はそこにあるような気がする。机、パソコン、椅子、服、本、床、目で見るだけでなく、触って確かめることができる。

みんなが存在すると信じているこの世界が本当に存在していることを、いかにして知るのか。そして、私から見えている、知覚されるこの世界は、その「実在する世界」と概ね一致しているのだろうか。


世界を確認する

(読まなくても良さそうな、実在に関する直感的な記述↓)

私が「有る」と感じたモノが本当に実在しているかどうかについて、他の人も同様に「実在している」と感じていることを、私が知ることでしか、わかりえない気がしている。つまり、全ての人、ややこしい言い換えをすれば、全ての「私」が、主体として或るモノを「実在する!」と思うこと。そして、それを共有することで、その「実在する世界」の存在が担保できるのではないか。(逆にいえば、誰も「実在する!」と思っていないもの(=知られていない、注意が払われていないモノ)は、私たち(人間?)の世界には存在しない)

簡単に言えば、集団で思い込めば、ないものも存在させられる。でも、ひとりならそれは、私の狂気になってしまう。

一輪の花が、人知れず咲いていたとしても、誰も見ることができなければ、存在しないも同然で、ある蜂や蝶にだけ、その花が認められているなら、その花は、その蜂や蝶の世界にだけ、存在する。(でも、このあるかないかもよくわからない花について「絶対にあるはずだ」と信じ込むことで、仮になかったとしても、私たちの世界に花の存在を持ち込むことはできそうだ)



では、「見る」とか「触る」とか(匂いや音もそうかもしれない)感覚に頼るやり方ではなく、「実在する」世界を確かめる方法はあるのだろうか。私が見ているものを、第三者も見て認識できるはずだことを、つまり、「存在」を、どうやって確かめればいいんだろう。

当たり前だけど、「存在を確かめるには、感覚があれば十分でしょう」これで充分な場合が多そうだ。そして、私は言葉を使うことができるから、しかるべき時に「この机って、あなたの世界にも実在してますよね。私たちは、同じ「実在する世界」に生きていますよね」と確認ができそうである。

誰かと同じ机を指差して「机だね」と言うだけでいい。
今の私には、これ以上の複雑な哲学的議論は思いつかないし、論じられそうにないから。(ありふれた哲学的テーマで申し訳ない)

ただ、この確かめ方は正常な知覚を前提としてしまっている点で、私には心細い。つまり、「いやいや、机なんてないよ」と言われそうで、怖いのだ。

幻聴は世界の一部か?

感覚だけでは世界の存在を認められないという実感を持つに至ったような、
「実在する世界」が揺らいでしまった、象徴的なエピソードがある。

今のマンションに引っ越して1ヶ月ほど経ったころ、朝方に目覚めたら、隣人がとてつもなく大きな声で叫んでいた。枕元で誰かが叫んでいるのか、というくらいうるさくて、怖くて、流石に管理会社に連絡を入れた。

でも、今思えば、私は幻聴でクレームを入れていた。

なぜ「幻聴」だったことがわかったか。それは、普段から叫んでいる隣人がいたからだ。かなり混乱を招くような書き方だが、それが事実である。

どういうことかといえば、普段の隣人の狂い具合を観察すれば、どれだけ人が騒いでも、「枕元で叫ぶ」ほど鮮明な音にはならない。壁がある以上、やや籠る、ということがわかる。

なのに、それに気づくまでに、多分、2週間くらいかかってしまった。
私の世界では、あまりにうるさいあの叫び声は、2週間、実在していたことになる。

もし、気付かなかったら。具体的に言うと、その幻聴以降に、隣人が発狂しなかったら。
私は、死ぬまで「めちゃくちゃうるさい狂人が近くに住んでいた」という世界の中で、生きていたのかもしれない。それは、やっぱり悲しいし、いやだ。

でも、まあ、私にとってそれが真実なら、甘んじて受け入れていくべきなのかもしれない。

「幻聴が幻聴であること」「幻覚が幻覚であること」は、直感的には知り得ない。なんらかの証拠、特に状況証拠が必要だ。*他者からの証言が一番望ましいと思う。
(中学生の時に、スマホの画面にムカデが乗っていたので、アスファルトに携帯ごと叩きつけたら、母親に「ムカデなんていなかったのに」と言われたことがあるので、やはり正常な他者に世界を確認してもらうことは大切)

このNoteのタイトルに答えるならば、幻聴は"私"の世界の一部である。
あなたや私の周りの人の世界には、存在しない。仮に存在してしまったら、それは幻聴でも幻覚でもなかったのだ。(奇跡的に同じ幻聴を、同じ時間に聞いたとして、確かめられるんだろうか)

「実在する世界」に存在したい

ところが、上に書いたように、私にとってだけ真実である世界を受け入れることは「やっぱり悲しいし、いやだ」。これはどういう感情なんだろう。

漠然たる世界

思うに、マジョリティ的な「実在する世界」から弾かれるのは、私を含め、多くの人にとってきつい事実なのではないだろうか。私たちは、ぼんやりした世界の了解の中で生きている。大雑把に、「社会」と言い換えても良さそうだ。

神はいそうだ、とか、死んだら幽霊になりそうだ、とか。地獄や天国がありそうだとか、人形を捨てるとバチがあたりそうだ、とか。

その延長に、犬は鼻が良さそうだとか、地球は丸そうだ、とか、自分では直感的に理解できないけど、証拠がありそうな真実?のようなものもありそうではないか。

確認できなくても、世界で通説的に"そういうこと"になっていれば、なぜだか受け入れられる気がする。(証拠が気になって本を読んだりするけれど)

でも、私の個人的な問題である、幻聴や幻覚が、マジョリティ的に認められる「実在する世界」に入っているとは、どうも思えない。当たり前なのだが。
そして、マイノリティというわけでもない。誰とも共有できない知覚だから、ただ、孤独にその世界を見ていることになる。或るひとりにしか知覚できないものを、「実在する」とは言えない。

「つちのこを見た!」といっても信じてもらえないのと同じ。

幻覚と幻聴はやめられない

幻聴をやめる って言えるのだろうか。(もちろん意識的にやってるものじゃないから、おかしな言葉づかいだ)

はじめに戻るが、
自分は世界に実在しているはずなのに、私から開けている(=私が見て感じている)世界が実在していなかったら、自分の存在まで危ぶまれそうで、やっぱり困る。

でも、「幻聴(や幻覚)は"私"の世界の一部である」という実感が得られた。つまり、逆にいえば、「幻覚や幻聴を自覚し、それを排除すれば、実在する世界を担保できそうである」

うーん、もしかしたら、当たり前のことを言っているのかも。

実存に関わる問題

どうやら悩むという行為は、いつも実存的な問題に帰ってくるらしい。幻聴や幻覚を知覚してしまうこと、そのせいで、自分が感じている世界が実在するかどうか悩むこと、それは、自分がきちんと存在できているか不安になることとつながっているみたいだ。

でもまだ、わからないことがある。
どうして、自分が自分の存在に疑問を持つか、だ。

「私」は「私」であると確信しながら、それでも、自分が"正しく"実在しているのか、悩んでいる。猫を触って「本当にこの猫って存在するのか?」とは思わないけど、自分の存在については、馴染まない。いや、もちろん、実は存在してませんでした〜物理的に。とはならない。(「私」を知覚しているのは、紛れもなくこの「私」だから。物質的に「私」があるのかはわからないけど、やっぱり「私」ってなかったんだ!と思うとして、その主体は誰?)

そして、この悩みは、実感としてあるわけじゃないけれど「存在したい」という欲求から来ているものなんじゃないか、と、なんとなく思う。

その「存在したい」欲求は、動物の本能がそうするのか、種としての人間の特徴がそうするのか、とか、そういう自然科学的な説明ができるのならありがたいけど、今の私には難しい。だから、これはまたの課題となる。

この議論をする前に、考えておいた方が良かったことかも。次の論点が見つかったということで。

12歳ごろには精神的な問題を抱えてしまっていたから、「存在したい」みたいな根源的な欲求・感情に、相当鈍くなってしまっているんじゃないかと踏んでいる。書くことで、取り戻せたら。


【付記】
人に幻覚を確かめられない!という悩みを相談したら、三角形の部屋に3人で(角に一人ずつ配置する)住んで、絶え間なく同じ対象を、別の角度から観察してもらえばいいのでは?という提案を受けた。面白い。

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