自分の体が実験台
こんにちわ。
@osamu036110です。
NOTEブログを始めて一週間が経ちました。
18歳から実家を出て、東京の赤坂新聞配達住み込み生活からスタートし、凡人の私でも、その後の変わった経験、貴重な経験から、新たなこと、新しいチャレンジを少しだけしてきた、私がつかんだわたしのやり方は、
やる目的を念頭に、とにかく量が質に転化するまでやろう
です。
特に、特別な方法や特技がなくても、目の前のできること、目の前のやってみたいことを、ひたすらわがままにやっていこうです。
基本的に、シンプルです。シンプルなんですが、興味があることには、どんどん自然と無意識に深掘りしていく感覚があります。そのアンテナがあると、何かのタイミングで、興味のある場所に居たり、興味のあることをしていたりと、できるだけシンプルに過ごしても、おどろくばかりでした。
海外に住んでみたいと思っていたら、トータル2カ国で2年間移住することができたし、20カ国ぐらい外国旅行にも行く経験をすることができた。
初めから頭でっかちになると動けなくなってしまう性格なので、18歳に実家を出てからは、自分の体が実験台だと思って、できるだけ言われたことをうのみにするんではなく、あくまでも参考にして、自分でやってみる。
まわりからバカにされても、とりあえず続けてみることで、形にしていく。
こんなことやったら、まわりからどう思われるかな?
これって世間的に難しいと言われていることだからダメなのかな?
いろんな周りの目を気にしていたわたしでしたが、20歳で沖縄へ移り住むときに、特に、心の中から聞こえてきたし、まわりからも大丈夫なのといわれた記憶が根強く残っています。
今思えば、何が大丈夫なのか、全く根拠のない私の人生への愚問でした。
昨年の8月から、1日20個のゴミを毎朝拾おうという、わたしがやりたいからやっていることも、もう少しで一年が経過しますが、私なりにいろいろな気づきがあって、やっぱりやってきて良かったと思っています。
毎朝拾っていても、毎朝ゴミが出てきます
なぜ、ゴミ拾いを始めようと思ったのか?そのきっかけは、とても有名な
アドラー心理学「嫌われる勇気」を読んだことがきっかけです。
仕事の本質は他者への貢献
P238(以下、引用)
他者貢献が意味するところは、自己犠牲ではありません。むしろアドラーは、他者のために自分の人生を犠牲にしてしまう人のことを、「社会に過度に適応した人」であるとして、警鐘を鳴らしているくらいです。
(中略)
つまり、他者貢献とは、「わたし」を捨てて誰かに尽くすことでは無く、むしろ「わたし」の価値を実感するためにこそ、なされるものなのです。
(引用、終了)
自己肯定感を持って、主体的にやる。そのゴミを拾っていると、なぜか、共同体感覚が、勝手に感じられるようになる。この無意識に感じることができる自分の体の状態、感覚がすごくよい。心地よく朝を迎えています。
なぜかというと、自分の価値を体で体感しながら、素直にものごとをみれるようになったからです。これ、本当にそう感じます。
自分の体が実験台ですので、素直に物事がどうしても見れない、幼い時に根付いた何かしらの心のレンズがあったからこそ、根拠のない不安になるわけで、少しでもそうした悩みや不安があれば、ぜひともオススメです。
ただ、一人でやるのが少々気がひけるというときは、ぜひとも共有して、やっていきましょう。