栗原康さん×勝山実さん 対談 後編・2
ビラのように、書きたいことを書く
栗原:『菊とギロチン』の監督や役者さんたちからもエネルギーをもらったし、なんといっても憑依する相手がギロチン社ですからね。死に向かってエンジン全開で突っこんでいく。振りきれてます。
ーーそれもあるのかな。勝山さんはどう思います、最近の栗原さんの表現については?
勝山:私は最高だと思うけど、一般の人はついてこられるのかなって考えちゃいます。例えば『村に火をつけ、白痴になれ』(岩波書店)は誰が読んでも文句なしですよね。これにケチつけられる人はいないと思うんですよ。だから、ずっとこの感じで行くのかな? と思ったときに『死してなお踊れ 一遍上人伝』が出て、その後に岩波新書で『アナキズム』がバーンとでたわけじゃないですか。
前の飲み会のときに、「ビラを書きたいんです」と栗原さんが言ってたんですよ。「ぼくはずっとビラでいいんです」ってそんな感じのことを言ってたんだけど、その時は「本当かな?」ってちょとだけ思ったんです。まだ栗原さんを理解していなかったから。でも岩波新書とか、一遍上人伝を読んで、もう正真正銘「本当なんだな」って。書きたいことを書くんだというのが100% なんだと思ったとき、すごい人なんだなというか、自分とはまったく違う人なんだなと感じました。これは「憧れ」でもあるし、そうあるべきだと思うけど、なかなかできるもんじゃない。
栗原:読者減らしますからね。
勝山:そう。だから私もひきこもりのくせに、自分とは無縁の「広い読者」を意識しちゃうんです。でも、それって正解がないじゃないですか?
栗原:ないですよねー。
勝山:ここをこう直せば「広く読まれる」というのはねえ。
栗原:正解はわかんないですよね。ただ、微妙に「これはやっちゃダメなんだろうな」というのは存在する。
勝山:(笑)そうそう。その「やっちゃだめなんだろうな」に自分がいかに流されているか。世間の主流と関係のない片隅にいる人間でも縛られているのに、栗原さんは自由なんですよ。そこに心打たれます。ちなみに杉本さん、これ読みましたか? 『執念深い貧乏性』(文藝春秋 2019)。
ーーああ、それは「文學界」に連載していたのをまとめたものですね。立ち読みはずっとしていたんですけど、購入はしていませんね。
勝山:ぜひ読んでください。これも笑えます。「成金ハウス」もそうだし、「万里の長城」の話とかね。
ーーありましたね(笑)。
勝山:吹き出すくらい笑えるのがちゃんとありますから。『はたらかないで〜』がおもしろい人だったら、この本も絶対おもしろいはずですよ。
ーーそうかもしれませんね。おそらくいまの勝山さんの批評はすごくおもしろくて、ぼく、うまく説明できなくてすごく苦しいんですけど、最近の栗原さんの文章ってそうとう圧が強くなっていて、編集者の人なんかはどうおもうのかな、と。特に新書の『アナキズム』(2018)なんかは岩波新書ですし、カバーも特別に黒かったりとか。サービスがすごいじゃないですか? で、中を見たら「オレ、オレ、オレ」みたいな(苦笑)
栗原:呪文みたいな(笑)
ーーこれは栗原さん、ちょっと読み手を離さないか?なんて。正直なことを言っちゃいますけど、ファンとしては思ったりもしたんですよ。この表現を理解できてるかオレ?本当は理解できてないかもしれないぞみたいな感じがあって。でもやっぱり勝山さんが言われる通りでね。書きたいものを書いて、岩波新書だろうが、「書くんだ」というところ。また「出してくれるんだ」という。…だからこれはアリなんだということがきっと自分にはまだよく理解できてないのかもしれない。
勝山:この本が出た頃、フランスで黄色いベスト運動が起きたんですよね。それがちょっと惜しいなと思って。もうちょっとはやく黄色いベスト運動をおきてくれてたら、その解説とかも盛り込めて、もっと多くの人に響いたんじゃないかと思ったんだけど。
栗原:これがちょうど黄色いベストと、香港のあいだなんです。
勝山:彼らがなんで、あんなめちゃくちゃに壊したり暴れたりしているのかがよく分かる。
栗原:いま、デモと暴動の境界がなくなってきていますからね。いい意味で、運動が活動家の手に負えなくなっている。制御できない。ブラック・ライブス・マターもそうですよね。
勝山:そうですねえ。
栗原:そういう運動の根底にある「アナーキー」を表現したかったのですが。