偏見と理解と体感と。
ある属性の人がすべて〇〇ではない、例外もいる、というのは頭で完全に理解していても、心が理解していない場合が多い。
頭ではわかっているのに、「体感」がそれについて来ていない。
ある属性の人に関して、何かとても嫌なことがあると、その属性全体が嫌に感じることがある。
頭ではわかっている。
全員がそういうわけではない。
しかし、先日そういった嫌な経験をして、この偏見が自然と取れるまでに1、2日くらいかかった。
例えば7、8年前であれば、この心の動きにそもそも大して気づくこともなく、それを強化する方向にさえ思考が働いたりした。そんなことを思い出す。
頭で仕組みは完全にわかっていても、体がそう感じていない。そんなことは多くあると思う。
人はたいてい、それがどんどん積み重なっていて、何か劇的にある属性の人の見方を変えるようなことが起きない限り、それらが取れないまま生きていくのかもしれない。
もちろんこういう「偏見」全く無しに社会生活を送るのは難しいけれど、その「偏見」が絶対だと体感でも思考でも感じているのと、「偏見」は絶対的なものではない、という態度には差がある。
「偏見」を持つのは避けられないけれど、それを知っているのと、それを知らないのとでは違う。
自身が無知であることに無知であるのと、自身が無知であることを認識しているのには、大きな違いがある。
少し話が逸れた。
ある人が頭で「みんな違ってみんないい。十人十色。差別変化はいけない」みたいなことを考えているとする。
考えているだけの状態は、それが「身体」に落とし込まれて「人生」そのものになっていることとは全く違う。
それが「身体」になっているからこそ、そのように自然と動く。
先日の経験において、起きたすぐ後は思考でどうにかしようとした。「身体」を置き去りにして。いつもの私の癖だ。
それはそれで大事だとは思う。
それが数時間すると、思考でどうにかしようとするのが収まる。
翌日になると、すでに半分どうでも良くなっている。それでも「身体」にしこり・痛みが残っているのを感じる。
そしてまた次の日、しこりは気づいたらどこかになくなっていた。
今こうやって経験として話しているのだから、そのことを忘れたわけではない。ある意味、傷が一度ついて治ったようなものかもしれない。しかし記憶としては残る。
体感でわかるまでは、いくら頭で考えていても、頭でわかっていても、自然と「人生」としては顕れてこない。
考えや概念の中だけでいくら整合性が取れたとしても、もし「身体」を置き去りにしているのであれば、それはその人の歪みとなる。