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善きファンの法-否定的なことを書くなら、嫌われる覚悟をしろ。

この記事を書いている2024年4月8日現在、めちゃくちゃ話題になっているnote記事がある。

推し活を始め、推しに認知され、SNSをブロックされるまでの1年半

これがあまりにヤバい内容でアンタッチャブル感があったために、「例のnote」としてTwitterトレンド入りした。「名前を言ってはいけないあの人」みたいでおもしろい。



ざっくり言うと、「芸人のヤバいファンがライブやSNSで大暴れして本人たちからブロックされ、ファン仲間の間でも疎まれている」という窮状について、本人が一人称視点で書いた記事である。

「ヤバいファン」がネットで晒されることは珍しくないが、本人が長文で詳細に書き綴った記事は珍しいので、とても貴重な資料だと思う。僕もたいへんおもしろく拝読した。記事が消えないことを祈りたい。(この手の記事は後に消える傾向にあるので)

何がすごいって、彼は自分の非を一切認めていない。常に上から目線である。「ライブが面白くなかったからDMで本人に文句を言った」といったヤバい行動を頻繁にするにもかかわらず、一切反省していない。

ただ、洲崎さん達の最近の活動は、
あまりに納得のいかないことが多いので苦情を言っている。
僕は他にもたくさんのアーティストを応援しているが、
その方々は基本的には文句を言う必要が無い、素晴らしい振る舞いをなさるので
時々疑問に思う事があってもある程度は僕も目をつぶっている。
なんでもかんでも自分に合わせてもらおうとする自分勝手な人間ではない。
ある程度は、見逃す。大目に見る

https://note.com/syunki0910/n/n9e7ab2259c1c

ある程度は、見逃す。大目に見る」のところ、怖すぎないか。ボケずにこれを書いているのがヤバすぎる。何様なんだ。

ということで、この記事は「実録ホラーだ」といった形で楽しまれていることが多いようだ。


ただ、僕が今日書きたいのはその切り口ではない。なぜなら、その切り口についてはもうこのシリーズで記事にしてしまったからだ。

本マガジン初期において最も読まれたこのシリーズでは、ネットにいるヤバい知り合いについて合計5万文字ほど書いた。彼は伊坂幸太郎に直筆の手紙を39枚書いて送るという奇行をし、無視されたら「伊坂幸太郎はカス」と言い始めるヤバさを持っていた。「例のnote」の書き手とまったく同じだ。その精神性の分析についてはかつて5万文字使ってじっくり記事にしたので、それを繰り返すことはしない。気になる方はぜひ読んでほしい。


だから、例のnoteについては、違う切り口を考えてみたい。これはもしかしたら、「善きファンの法」を学ぶための格好の教材なのかもしれない。

現代社会は難しい。何かのファンでいるためにも、ルールを守らなければならない。彼はルールを守れなかったから排除されたと言えよう。

だから、今回は彼を題材にして、「善きファンの法」を書こうと思う。(例のnoteの内容は適宜要約するので、記事を読んでいなくても構わない)


僕はネットを主戦場にする作家・YouTuberとして、ほどほどに皆さんに「推し」てもらっている立場である。僕に課金してくれる数千人の皆さんのお陰で、何不自由なく生活ができている。本当にありがたい話だ。

その数千人のほぼすべては善良な人なのだけれど、ごく稀に厄介な人もいらっしゃる。そして、厄介な方とは上手に距離を取らなければならない。だから、僕はこの記事を「書かれる側」の芸人さんの気持ちも分かるつもりだ。

今回は、「書かれる側」の視点から、問題の記事を考察してみたい。



彼はなぜ嫌われたのか?

例のnoteの書き手(以下、「例の書き手」と呼ぶことにする)が嫌われる理由になったのは大きく2点だ。

①「今回のライブはおもしろくなかった」のような、否定的な言動

②「◯◯くんに抱かれたい」のような、性的な言動

この2点とも、すごく掘りがいのあるテーマだ。一記事にまとめるためには、片方について論じるだけで精一杯である。

だから、今回は①についてフォーカスして語っていこう。自慢じゃないが、僕は「堀元おもんない」のような否定的な言動をここ10年間毎日のように食らっているので、誰よりも解像度高く語れる自信がある。一方、②については、僕よりも適切な語り部がたくさんいるだろう(※)。

※僕はインターネットで10年近く発信活動を続けているが、露骨に性的な目線で見られたコメントは両手で数えられるほどしかない。僕ほどキュートでセクシーな存在はそうそういないのに、実に不思議である。


例の書き手に足りない感覚「公正」

早速結論なのだけれど、例の書き手に欠けている感覚は「公正」であるような気がしてならない。

彼は、終始「否定的な感想を言うのがダメなんておかしい!」と主張している。


そして、僕を否定する人はよく「笑いのツボは人それぞれ」と言う。それならば、「面白くなかった」という意見があっても、それも受け入れるべきではないか。だって、「笑いのツボは人それぞれ」なのだから。なぜそういう意見は言ってはダメなのか。

https://note.com/syunki0910/n/n0bbc0a2e4b96


「押し付けるな」などという人もいたが、僕は自分の感想を述べているだけで、押し付けているわけではない。

https://note.com/syunki0910/n/n0bbc0a2e4b96


この点において、彼の主張は正しい。インターネットではしばしば「その作品が好きな人もいるんだから、文句を言うな」という無理筋の主張が展開されるが、これは見当違いである。言論封殺だ。公開されたあらゆる創作物はあらゆる角度から批評を受ける。その覚悟がないなら、作品を公開してはならない。誰でも批評していいし、創作者はそれを受け入れないといけない。

一方、当然だが、批評を公開する人も同じ境遇に立たされることになる。ある作品をボロクソに貶した結果、今度はあなたの批評がボロクソに貶される可能性がある。これが正常な言論の世界である。あなただけが安全圏から石を投げたいというのはムリな話だ。この世界には「みそボン」みたいなシステムはない。誰かに石をぶつけたいなら、あなたも石をぶつけられるリスクを取るしかない。その作品が好きな人からはボロクソ言われてもしかたないだろう。

ましてや、その作品を作った人からは嫌われて当然である。クリエイターにとって、作品は我が子だ。死ぬほど頭を悩ませて作り、なんとか世に出したものだ。お腹を痛めて産んだ子のような愛着がある。

それを、通りすがりの他人に「駄作。産んだ価値がない」と否定されたら、どう思うだろうか。心情的には「てめえ殺したろか」となることは間違いないだろう。

だが、クリエイターは理解している。すべての消費者には、その批評をする権利がある。それが健全な創作の世界なのだ。だから、クリエイターは沈黙する。「てめえ殺したろか」と思いつつ、「まあ、そういう意見もあるよね」と我慢して受け入れる。大多数の見当違いなネガティブコメントは無視しつつ、少数の価値のある批判を拾い上げ、次回作に活かす。


このように、創作物に対する否定は原則として「作者に嫌われること」とイコールなのだ。「これは作品の否定であってあなたの人格否定ではありませんよ」なんてカスみたいな言い訳は建前でしかなく、真実からは程遠い。人格と作品を完全に切り離せている人間なんていない。

この極めてシンプルな原理を、例の書き手は理解していない。被害者意識で「僕は素朴に感想を言っているだけなのに、不当に嫌われている!」と訴えているが、そうではない。お前は素朴な感想を書く権利を持つが、周囲の人間はそれを嫌う権利を持つのだ。お前が好きに感想を書く権利と、周囲がお前を嫌う権利は等価なんだよ。

創作物を否定するなら、そのファンに好かれようなんて思うな。ましてや、作者に好かれようなんて思うな。お前は今から、その人が愛する子どもを否定するんだ。一生嫌われる覚悟でやれよ。


舞台上の人間は別世界だと思い込むバイアス

繰り返すが、否定的な言動をするなら、嫌われる覚悟を持たなければならない。

「私はあなたの作品を否定しますが、あなたは私を嫌いにならないでください」というのは、あまりにも傲慢な要求だ。

だが、なぜか、ここの感覚が壊れている人が多い。「あいつおもんない」とツイートした後に、平気で仕事依頼を送ってきたりする。

これはもしかしたら、「舞台上の人間は別世界だと思い込むバイアス」から来ているのかもしれない。便宜的に、「舞台別世界バイアス」と呼ぶことにしよう。


昔話をしたい。エゴサをしていたら、たまに引っかかる人がいた。その人は3回ほど、僕に関するツイートをしていた。たしかこんな感じだった。


堀元の動きが薄ら寒くて見てられなかった。頭が悪いクセに自分が賢いと錯覚している人間ってこんなに痛々しいんだな。
(動画のリンク)

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