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どうした家康 地震編

以前も書いたようBSのドキュメンタリー系番組、或いはニュース番組しか
原則テレビは観ていないが、日曜の夕食時にBSの大河ドラマを例外的に観ている。最もちゃんと観たのは『鎌倉殿の13人』位だが。

ということで『どうする家康』も観ている。家康が出てくる小説・ドラマは沢山ありよく知られた出来事が多いため、如何に面白くするかが脚本家の腕の見せ所であろう(『鎌倉殿の13人』は三谷幸喜の脚本の秀逸さ+歴史上の表舞台ではあまり取り上げて来られなかった事柄・人物という点での面白さもあったと思う)。

今回は、今後ドラマにどう出てくるかは?ながら、それほど有名でないと思われる震災に絡めたことを紹介したい。「小牧・長久手の戦い」以降、家康と秀吉の関係については、多分家康上洛のことと「文禄・慶長の役」のこと位しか知られていないような気がするので(日本史オタクの人は知っているだろう。因みに筆者は世界史オタクであるが、日本史オタクではない)。

1.天正地震(天正大地震)・・1586年
山内一豊と千代が大切にしていた一人娘与祢(よね)がこの地震で亡くなったことはよく知られている(千代と与祢は居城・長浜城にいた。一豊は京都に居て不在だった)。この地震で大垣城も全壊焼失している。天正地震を「長浜地震」ということもあるが、被害の広範さに鑑みれば誤解を受け兼ねない用語だと思う。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E5%9C%B0%E9%9C%87
(天正地震:ウィキペディア)

「小牧・長久手の戦い」の後、秀吉は大軍(十万と言われる)をもって家康を攻めるべく準備しており、大垣城はその最前線拠点、兵糧備蓄拠点となっていた。この焼失が秀吉の家康征伐断念→宥和策(懐柔策)に切替えた最大の要因というのが有力な説のようだ。即ち、天正地震により家康は大危機を免れたということである(大垣城は関ケ原の合戦の時に西軍の拠点となっているので再建されたことになる)。ついでに言えば、家康討伐の先鋒は山内一豊の予定だったと言われている。地震で居城が崩壊しては無理だろう。

地震の時に秀吉は坂本城にいた(琵琶湖の西岸、明智光秀の嘗ての居城)。ルイス・フロイス『日本史』によれば「「手がけていた一切のことを放棄し、馬を乗り継ぎ、飛ぶように大坂に避難した。
そこは彼には最も安全な場所と思えたからである」とのことで、慌てて逃げ出したようである。一方、家康の三河、遠江は被害が少なかった模様。

2.慶長伏見地震・・1596年(文禄5年・慶長元年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E9%95%B7%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%9C%B0%E9%9C%87
(慶長伏見地震:ウィキペディア)
「文禄・慶長の役」と言われるよう朝鮮(および背後の明)との戦争はまだ終わっていなかった。主力は肥前名護屋から一端引き上げていたので、地震発生時は豊臣統一政権のもと、家康を始めする諸大名は京の屋敷に集結していた。

明からの交渉使節を待って(結局は交渉決裂して慶長の役が始まる)伏見城にいた秀吉は、秀頼ともに危ういところで九死に一生を得た。収束後に秀吉は、文禄役で諸大名が疲弊・困窮しているにも関わらず、伏見城をより豪華に再建すること、及び朝鮮再出兵の命令を下したことにより、人心が離れた→豊臣政権瓦解のトリガーになっている。
家康は地震の時に秀吉を暗殺するチャンスがあったがしなかったという話もある

因みに、秀吉が方広寺(呼び名は江戸期についた)に建立した金属製ではない言わば張りぼての大仏(大きさは奈良の大仏を凌ぐ)は地震で大破した。守るための大仏が壊れるとはけしからんと怒った秀吉は矢を射かけたと言われている。

方広寺といえば、大阪の陣を始めるための難癖と言われる、豊臣秀頼による大仏・大仏殿再建に際しての梵鐘の銘文事件が有名である。
  「・・・国家安康 四海施化 万歳伝芳 君臣豊楽豊・・・」
地震により破壊された(地震での大破+秀吉により破却)方広寺再建は徳川と豊臣との共同事業か否かはさておき、費用負担は豊臣側であり、大阪の陣の軍資金減少の要因になっていることも付け加えておく。

尚、再建された金属製の大仏は潰され寛永通宝に化けたとのこと。銭形平次が投げていたのはこれである。野村胡堂の小説の時代設定は、最初は寛永期だったが途中で化政期に変わった。

<秀吉の伏見城>
秀吉が築いた伏見城は慶長大地震で崩壊したので、同じく秀吉の手で近くに再建された。秀吉が没したのはこの伏見城である。関ケ原の合戦の前哨戦「伏見城の戦い」で焼失し、江戸期に入って再建された(その後廃城)。
指月山伏見城(秀吉)→木幡山伏見城(秀吉)→伏見桃山城(家康)
(注)桃山城は廃城後に桃の木が植えられたが故の江戸時代になってから
   の名称
尚、京都・伏見の御香宮神社に伏見城の遺跡?がある(写真は筆者撮影)。

蛇足1:山内一豊の妻・千代の美談
千代については
①一豊が名馬を買うときに金がなかったので金子を提供した
②唐織の端切れを買い集め、パッチワークをして見事な小袖を作った
ということがよく語られる。
①は賢妻の鑑として戦前の教科書にも載っていたらしい。②は司馬遼太郎『功名が辻』がなければ知られなかったと思う。ともあれ、両方とも史実
ではないようだ。

蛇足2:「天災は忘れた頃にやって来る」
長い間、これは物理学者・随筆家・俳人だった寺田虎彦の随筆上の言葉だと思っていた。
虎彦が実際に書いているのは
「文明が進むほど天災による損害の程度も累進する傾向があるという事実を十分に自覚して、そして平生からそれに対する防禦策を講じなければなら
ないはずであるのに、それが一向に出来ていないのはどういう訳であるか。
その主なる原因は、畢竟そういう天災が極めて稀にしか起らないで、丁度
人間が前車の顚覆を忘れた頃にそろそろ後車を引き出すようになるからで
あろう

である。

但し、口頭では広く人口に膾炙していでいる文言に近いことを言っており、低温物理学で有名な中谷宇吉郎が朝日新聞で以下の紹介をしている。
「天災は忘れた頃に来る。 之は寺田寅彦先生が、防災科学を説く時にいつも使われた言葉である。そして之は名言である」

<参考文献>
・岳真也(2013)『災害の日本史』PHP文庫
・磯田道史(2014)『天災から日本史を読みなおす』中公新書

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