一首評「ビューティフル」
凹凸のような西陽が差し込んだ詩集に触れているこの両手
「凹凸な」という表現が、まず目に入ってきた。普通カーテンなどを使っていても、西陽というものはまっすぐ入ってくるように思っているからだ。その西陽が凹凸ということは、この西陽は主体のとてつもない主観の中にある西陽である。
ではなぜ西陽なのか?私なりの回答はこれである。西陽というのは1日の終わり、今日の太陽というものが残り香を残すかのように差し込んでくる光である。太陽というのは確かに何十億年も存在しているものであるが、太陽も今見ている瞬間のときが1番若い物体なのである。(正確には、およそ8分ぐらい光がこちらに到達するために必要であるが)そのような、今日の出番の終わりを悲しむ太陽が、振り向いてほしいという願いから出してきたのが凹凸な西陽なのだ。
今度は下の句に触れてみよう。詩集に触れているこの両手というのは、まだ開いておらず、定位置を離れた手が次の命令を待ってたたずんでいる瞬間を想起させる。それも詩集を開いて、その中にある表現に触れて…………そしてそこから描かれる感情の動き、それに伴う全身の動き、それを受け止める命令を待っている手のことだ。
なんとも言い難い瞬間を的確にとらえた歌だと、私は思った。