【036】ブッダの生涯-【12】(仏教哲学の世界観第2シリーズ)
梵天勧請の意味と仏伝上の矛盾
仏伝によると、梵天からの要請を受けたお釈迦さまは最初のうちは仏教の教えの内容の難しさから世俗では受け入れられないであろう事や、正しく聞く人がいないであろうと考えその要請を断っていましたが、3度目の要請により、ついに世に教えを広める事を決意しました。
このエピソードが梵天勧請ですが、今回はこの梵天勧請が何を意味するのか解説されています。
ブッダの生涯12
https://youtu.be/zAdgMlx-AK8?si=Pq5v2yvUdkcvqUNZ
AIによる要約
学習した事
梵天勧請の意味とはなにか
仏教を語る上で、「梵天勧請」がどのような役割を担っているのか。
まず、お釈迦様に教えを説くようにお願いしたのが「梵天」である。
この梵天とはバラモン教における神である。
バラモンとはブラフマンを意味し、それは梵天と訳される。
この梵天がバラモン教においては頂点の存在としての神であり、人々に対して恩恵や恩寵を与える最も拠り所とした存在であった。
当時の一般社会はバラモン教世界の価値観であったということになる。
仏教はこのバラモン教に対抗する宗教であり、バラモン教が制定するカースト制度からの離脱を目指す人間を後押しする。
すなわち、バラモン教の価値観では生きていけない人々の為に生まれてきた宗教とも言える。
当然、バラモン教における神ブラフマンこと梵天の力を仏教は否定する。
これをふまえて「梵天勧請」を見ると、
人々に教えを説くことに対してためらっているお釈迦さまに対して、
梵天は手を合わせ、「お願い」をしているという構図となる。
これは別の言い方としては
お釈迦さまがやろうとしていることは梵天には不可能である
事を意味する。
だから梵天がお釈迦さまに頭を下げてお願いをすることになる。
もちろんこのエピソードは仏伝の作者による創作ではあるが、ここにはバラモン教という権威に対して従わない。むしろお釈迦さまはそれを超える存在であるという主張となっている。
これは単に力の誇示を意味しているわけでは無く、神に頼らず自分で自分の心の苦しみを消すという仏教のもつ世界観の反映という意図を持っている。
これが梵天勧請の持つ意味である。
梵天勧請が先か、過去生の仏伝が先か?
もう一つは、この段階までお釈迦さまは人々の救済を考えていなかった点。
したがって、梵天勧請をターニングポイントとしてお釈迦さまは世俗の価値観で生きていけない人々のために救済することを決意することになる。
それも「水上に出て咲く蓮の花のため」=お釈迦様の教えを受けたいと願う人々のために説法をする、という決意である。
ところが、こうなると仏伝に矛盾が生じてしまう。
最初期の仏伝はお釈迦さまの悟りの場面から始まるのだが、後の時代の仏伝によると、生まれた頃の話やさらに生まれる前の過去生の物語も登場してくる。
そのなかでは過去生においてお釈迦さまが過去の別の仏陀と出会い、仏陀(悟りを開いて人々を導く)となることを誓っている。
その後何度も生まれ変わりを繰り返し、菩薩として修行を積んでインドのカピラ城で生まれ王子となり、修行をして悟りを開いた。
となるとその段階で独覚ではなく、最初の誓いの通りに人々を導き救う仏陀になるはずである。
ところが、そうはならず梵天勧請を受けて仏陀になる決意をしている。
つまり、(仏伝に素直に従うのであれば)過去の誓いが無かったことになっている。
さらにいえば、菩提樹の下で悟りを開き仏陀となったわけだが、原則として仏陀という存在は全てのことを見通す力があるはずなのに、梵天勧請を受けるまでは自分が元々仏陀になるための修行を過去生の間ずっと続けていたことを忘れてしまっていることになってしまう。
全てを見通せる仏陀になっているというのに、
自分の誓いを忘れてしまっているという矛盾。
これをどのように解釈すべきだろうか。
仏伝における矛盾とその捉え方
整理すると二つの解釈がある。
お釈迦さまは自分の苦しみを消す為に修行し、悟りを開いた。そこに梵天からの要請を受けて仏陀となることを決意した。
数百億年昔に過去の仏陀と出会い、多くの人を導く仏陀となることを誓っい、何度も修行しながら生まれ変わり、ついに菩提樹の下で悟りを開いて仏陀となった。
どちらを仏教の仏陀として捉えるべきだろうか。
仏教徒であればどちらの仏陀像を信じるかで大きく色分けされてしまう。
この問題は、各個人の宗教観に対するあり方が強く現れる。
このように、仏伝とは読む人の仏教に対するスタンスを明確にする足掛かりとなり得る文献である。
実際のところ
学術的な面から見ると梵天勧請が先である事がわかる。
なぜならば、過去生からの物語が先であるとするならば、それまでの遠大な物語は最初から存在していなければならなくなる。
これを無視して途中から梵天勧請のエピソードを入れてしまうと、せっかく過去生から全体を包括した物語が崩壊してしまうからである。
過去生の物語が先に成立した可能性はかなり低いと思われる。
実際のところは、
お釈迦さまは自分のためだけに悟りを開いた後、なにかしらの心変わりがあり人々に教えを説く決断をした。
そしてこの心変わりを梵天勧請としてエピソード化したというのが自然な流れである。
その後に弟子たちや後世の人々によって神格化され、過去生を含めて理想的な人物像、慈悲深い仏陀像が構築されていった。
そのなかにあって「梵天勧請」だけがぽつんとエピソードが残った形であったであろうと考えられている。
感想
語るに落ちる。というのが率直な感想。
仏教徒ではない僕としては利己的でも普通に人間臭いお釈迦さまの方がむしろ信頼できる。
2500年も前の人物であっても、そこに人間に対する深い洞察があり、一つの到達点に辿り着いたという事実の方が遥かに価値を感じる。
例えると、韋駄天の100m走よりも「普通の人間」であるウサイン・ボルトが人類としての記録を更新した方が僕は人類の可能性も感じるし、勇気づけられる。
なんでもありの神様なんかよりも人類の限界に挑戦する姿の方がカッコいいと思うのだ。
同時に僕は今回の解説を見ながら少なからず怒りも覚えた。
なぜ、どうしてこんなにも自分勝手に理想像を作り上げて語るのだろう。
お釈迦さまに対する思慕の念があるのはわかるが、あまりにも本人に失礼であるし、そもそも根本的な教えを捻じ曲げているようにも感じてしまう。
そんなにも神話でなければ人はついていかないほどにアホなのか。
その本質を考えればすぐにそのエッセンスは理解できるだろうに。
「自分で自分の心の苦しみを消す」という思想を
「自分で考えることをしない」人が崇める皮肉。
ウサイン・ボルトに感動できる一方で、自分の都合の良い解釈しかしない大勢の人々に対して絶望感も感じてしまうのだ。
次回は「ブッダの生涯13」 (仏教哲学の世界観 第2シリーズ)
悟りを開き、梵天勧請を経て、お説法をする決意をするまでの心理について解説されてります。
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