嫌いになったわけ、好きになったわけ
幼少の頃は学校に行けば休み時間になればドッチボールをして遊び、勉強は嫌でしたが成績は特に問題がなく、小学校のクラブでは漫画クラブで、放課後には家に帰るなり友達と野球を行うようなどこにでもいるような小学生でした。そんな日々を過ごしていたのですが、1991年12月23日の昼頃、事件が起こりました。突然な出来事でした。
祖父がクリスマスプレゼントを私に買ってあげようと思って祖父と妹と私と3人でプレゼントを買いに歩いていた時に私が「頭痛い」と訴え祖父の背中に負ぶさって少し歩いていると、妹が「けんちゃん吐いているよ」と祖父に教えたのです。その時には意識がなかったそうです。急いで町中にある診療所に駆け込んだそうです。その医者が「これはいかん」と思い、診療所から救急車に電話。その後手術が出来る大病院の医者に手術を依頼。大変だったそうです。程なく救急車が到着。走っている途中「心肺停止」「蘇生」を2度ほど繰り返し病院に到着。即緊急手術。後数分遅かったら危なかったらしいです。無事回復。けれども長い間目を覚まさなかったらしいです。
クリスマスを過ぎ年越しをし1ヶ月ほどしたら私は目を覚ましました。病名は脳動静脈奇形破裂出血後遺症。わかりやすく言うと脳の動静脈が切れて破裂したとのこと。頭にメスを入れて動静脈の処置をしたとのこと。後遺症は右片麻痺。失語症等高次脳機能障害症候性てんかん。身体半分麻痺で今でも後遺症のせいなのか右目は一人でウィンクは出来ません。失語症は今よりひどく、特に言語関係はほぼ壊滅的でした。
小学校に戻り、健常者の自分を見ていたせいもあり、それほどはいささかいはなかったのですが、興味も示さなかった子が急に「大丈夫?」「手伝ってあげようか?」と親切になり、小学生だったのもあり居づらく運動主だった子が段々と1人になり、自分を受け入れてくれる人しか受け入れなくなり、少しづつ世界が閉じていったのを思えています。そこにある私立の中学校のことを耳にします。健常者と障がい者を分けないで、同じクラスで学ぶ。そんなイメージを聞きまして、受験モードになり、猛勉強をしました。勉強と言いましてもその学校の試験には算数、国語以上に作文を重視する学校だったため、作文を書き見てもらいを何往復していきました。多分後にも先にもこの勉強が一番勉強したと言っても過言ではありませんでした。勉強のかいあって合格。障害者枠が4名あり、当時の応募人数は覚えていませんがそうとうの倍率だったような気がします。後日談で合格発表の日に私はあまりの緊張で高熱を出してしまいました。
中学はものすごく新鮮で一種のアメリカンスクールみたいな中学校でした。健常者と障がい者、微妙な差はありますが、仲間もでき、仲良く過ごしていました。けれどもやっぱり集団生活の中にいますと、いい仲間と悪い連中がいますよね。その悪い連中にいじめやらを受け少しずつしぼんで行きました。当時は口の麻痺がひどくよだれがダラダラ出ていましたので、それを中学生がわかるはずもなく、多分興味本位に見ていたのだと思います。その中学は、幼小中高大と一貫校だったため3年経てば終わるはずと思って我慢しました。そんな風に思っていた中学時代です。
高校に上がり、晴れの高校生活。クラスメイトが揃い見てみると、中学で仲良かった人が一人もいなく、代わりにいじめを主導していた主犯格の人がいました。いじめになるような感じのことは何もしてこなかったのですが、高校になっていた頃はいるだけで怯え、声かけられると恐れ、本当に何も出来なかったです。そんなこんなで高校の1年の夏休学届を出し、再度1年をやろうと思ったのですが、元気も出ず中途退学。退学届出しに行った帰りの昇降口に主犯格の下駄箱の靴に画鋲でも入れてやろうかと母親に言ったのを今でも覚えています。しませんでしたけれども。
高校中退後、引きこもり気味になった自分を何か出したいと思ったのですが、何はともあれ満面な笑みな退学ではなかった為、精神状態が荒んでいました。昼夜逆転。夜ゲームをし、夜中コンビニに行きという基本的な親不孝をしていたのですが、少しづつまた高校やり直そうかな?と思い引っ越しを機会に高校志願。けれども障害の問題で普通校が通えず、養護学校へ。そこでまた色々あるわけですが。
養護学校に受かると担任となる先生が登校1日目で大学に行きたかったので、私が担任に「大学に行きたい」と進路希望といいますが、単なる担任に向けた雑談の中での話題でしたが、その担任があろうことか笑って「上野くんが?無理でしょ」と一蹴りいたしました。自分はその場では笑って済ませましたが、ただ引き金を引いたようにその時から担任がいやらしいいじりをしてきました。最初はクラスメイトと同じことを行った事を叱り、自分と担任1人ずつ別室に行き罵り、そうすると段々と学校に行きたくなくなり最終的には学校三年間の登校日数3分の1も行かなかったと思います。未だにあの先生のいじりの原因はわかりませんが、運良く養護学校の規定上「日数関係なく卒業できる」という事なので無事卒業。ホッとしておりました。
高校受験勉強は美術学校に行きたかったのですが、先生は信用できなかったので誰にも話せず、一人カラオケルームに行き、そこでデッサンをしておりました。当時は美術予備校もあるのも知らなかったので、毎日毎日そこで描いておりました。担任が三年になると変わり、担任と副担任が良かったので助かりましたが、ここまで学校にいざこざがありますと中々「美大に行きたい」と言えなかったのですが、高校3年夏休みの進路三者面談で担任たちが「どうしたい?」と言ってきましたので思わず、「美大に行きたい」と話しました。そしたら担任大慌てで色々と調べて「オープンキャンパス行け」やらなんだで初めて大学に行きました。そしたら大学の恩師になる先生ですが、油彩の教授が現れて、色々と聞いてくれて、「あなたは大丈夫。受けなさい」と仰ってくれて受験して合格。教授がいなかったら多分美術を目指していなかったかもしれないです。ただ準備段階が圧倒的に足りなかったので、受かった後は苦労はしました。
晴れて新大学生。短大ですので若干大学生とは違いますが、医者には「この子は大学に行けない」(病気で)と言われていたので、私もさることながら両親も、関わったお医者様も嬉しがっていたのが印象でした。ですが本来は何年間かけて美大は受験するものなので、物を捉える筋力やデッサンやらは圧倒的に不足しておりましたので苦労はしていました。そういう学生の弄りは多少あったのですが、初めて自分から開いた世界ですのでとにかく楽しかったです。けれども小学から高校までのネガティブな考えは中々捨て去ることが無できなく苦労はしていました。しかし意識も環境も変わり、時々過去の記憶で苦労はしましたけれども短期大学卒業し、専攻科に進学し、美術史を習うようなコースへ進学するものの、障害特性上不向きでダウン。退学するものの、前から引きずっていた鬱症状が再発し、病院へ。3ヶ月ぐらい入院する羽目に。
復帰した後絵描業へ。最初は知っている間柄の先生のところへ訪れていきました。それは楽しかったのですが、やっぱり美大卒業したのだから一度は個展を開きたいと思い、自分から個展会場を探すことに。銀座を中心に画廊をあっちこっち探して行きました。入院していたのもあって仲間ももう頼れず一から無知識で探しました。断れたり、条件が合わなかったり、色々していましたが、そんなある日に「ここいいな」と思えて条件もよく、2年後に予約することに。その間その画廊のオーナーがグループ展や画廊めぐりを教えてくれたりしましたが、そして個展を開きました。途中経過は省きますがその時絵描き業で知り合った人が何よりの宝となりました。一回目、2回目、3回目、4回目と進んで韓国のレジデンスで知り合った方々も今でも連絡を取り合っています。2011年から始めた個展も今では今年で26回目。経験もしましたし、自企画も行うことも今ではします。けして一歩踏み出さなかったらここには辿り着かなかったことばかりです。これからもチャレンジを果敢にして、参りたいと思います。大切な方。尊敬する方。お世話になった方などなど。全てが自分の経験になっていますので大切にして、それをいかにして力に出来るか。まさにそれにつきます。
長々とありがとうございました。
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