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ウクライナ侵攻から、日本の戦国時代を連想する

今週、ウクライナの北東部の要衝であるイジュームがロシアからウクライナが奪還したことが、やや膠着状態を感じていた世界に衝撃を与えました。
 
この記事について、日経ネット上にてロシア専門家として有名な小泉悠先生が以下のようなコメントを寄せられていました。
 
「穿った見方をすれば、夏頃からウクライナ軍が南部攻勢を強めていたのは、ロシア軍主力を南部に誘引して北部の防衛を手薄にさせる陽動作戦だったのでしょう。また、これだけの大突破に一気に成功したところを見るに、ウクライナはどこかに大規模な予備兵力を隠し持っていた可能性が大だと思います。」
 
私は、このコメントを読んだ時、戦国時代の戦術の一つであった「中入り」を思い出しました。
 
「中入り」とは、二つの陣営が対立している最中に、一方の陣営の別部隊が敵の本拠に深く入っていき、その本拠を攻め滅ぼす作戦です。織田信長が編み出したと言われ、その後の作戦でも多く使われました。
 
しかし、この「中入り」は非常に危険な作戦とも言われていました。それは、別部隊を編成することで本隊が手薄になるほか、別部隊が敵中に孤立することにより、壊滅する可能性があります。
 
実際、豊臣秀吉と織田家重臣であった柴田勝家が戦った「賤ヶ岳の戦い」では、両陣営のにらみ合いが続く中で、秀吉不在を狙った柴田別動隊が豊臣陣地を攻めますが、秀吉のスピーディな帰陣により別動隊を壊滅し、柴田軍全体の滅亡に繋がります。
 
また、同じく豊臣秀吉と徳川家康が戦った「小牧長久手の戦い」においては、今度は逆に秀吉が別動隊を編成して徳川の本拠地を攻めようとしますが、家康はこの別動隊を壊滅させています。
 
さて、今回のイジューム陥落。ロシア軍はウクライナ南部深くに引き寄せられたことにより、ロシア国境に近い要衝をウクライナ側に奪還されました。見方によっては、南部に別動隊を「中入り」したところ、手薄になった本拠地である東部の一部を奪還されたようにも見えます。今後、東南部、南部の攻防戦が本格化しそうです。ウクライナがロシアをどのように包囲し、攻勢をかけるのか目が離せません。
 
もちろん、ウクライナ軍がこの戦国時代の「中入り」を知っていたとは思えませんが、歴史は今後の世界をクリエイティブするヒントを与えるデータベースです。今後、日本も地政学的なリスクが高まる中、歴史から学ぶことも多々あるのでは、と思います。

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