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グダグダに混乱し続けた平成時代の30年間には「ブチャラティの覚悟」が宿っていた

トップ画像は人事院ウェブサイトより

この記事は、米軍のアフガン撤退という「世界史的事件」がもたらす環境の激変が、むしろ日本にとっての「繁栄のボーナスタイム」に繋がる好機になる・・・という話をする一連の記事の続きです。

まずはメイン記事がファインダーズというウェブメディアに載っているコレ。

繰り返しになりますが、まとめると、

・今回の「アメリカ撤退」は、「アメリカの衰亡の象徴であり、反アメリカ勢力の勝利」という理解は正しくない。

・今回の事件とよく比較される1975年の「サイゴン陥落」から考えても、それは直感に反するようだが「アメリカの衰退」よりも「反米勢力の終わりのはじまり」を意味していた。

・反米勢力は反米であるうちが花であり、”アメリカ”を拒否すると、その存在感の空白を埋めて日常の経済の隅々を統御できるだけの秩序形成の中心を作るために必死の内輪争いが始まる。(それは時に歴史的に非常に陰惨な事件につながったし、すでにチラホラとタリバン兵の”私刑”的なニュースが入ってくることでその不穏な未来を暗示している)

・アメリカ単体で世界秩序を形成できなくなった時、むしろ日本をはじめとする米国側同盟国の存在意義は急激に高まる。アメリカ単体でなく”アメリカ側に立つ国ぐに全体の総合力”が重要になってくることで連携性が高まり、”陣営対陣営”という意味ではむしろアメリカ側に有利な状況になっていく。

・日本は今までのように「アメリカの影に隠れていれば安泰」という状況ではなくなり主体的に考え主体的に行動することが必要になるが、それが過去30年の平成時代の「いかにも中身がない空論」を弄ぶような状況を超える新しい日本の繁栄の道への扉を開くことになる。

というような構造があるのだ・・・ということが、私が今回の一連の記事で言いたいことの「幹」の部分にある見方なんですよ。

で、そういう状況の変化の中で、「アメリカ型に全方位を糾弾しまくる政治的正しさ運動は転換期を迎える、そこに日本が果たすべき役割がある」という記事が一個前のnote↓です。

で、今回の記事は、さきほどのまとめの中での、

・日本は今までのように「アメリカの影に隠れていれば安泰」という状況ではなくなり主体的に考え主体的に行動することが必要になるが、それが過去30年の平成時代の「いかにも中身がない空論」を弄ぶような状況を超える新しい日本の繁栄の道への扉を開くことになる。

という部分を引き受けた上で、この「世界史的情勢変化」を受けて日本が本当に「主導権」を握り直していくには、「平成時代」をちゃんと総括して今後の道を選び直すことが必要なのだ・・・という話をします。

特に最近読んで物凄く感銘を受けた與那覇潤氏の「平成史」という本があるんですが、その紹介などもします。

いつものように体裁として有料記事になっていますが、「有料部分」は月三回の会員向けコンテンツ的な位置づけでほぼ別記事になっており、無料部分だけで成立するように書いてあるので、とりあえず無料部分だけでも読んでいってくれたらと思います。

1●與那覇潤「平成史」は凄い勉強になった

ツイッターでも書いたんですが、與那覇潤さんの「平成史」↓という本をたまたま見かけて読んだらめっちゃ面白かったんですよね。

平成史―昨日の世界のすべて (文春e-book)

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平成というのは、

「昭和天皇」という「右派にとっての父」

「共産主義」という「左派にとっての父」

が両方消滅した世界の中で、どこにも基準点が見いだせずに漂流し続けた社会だったのだ・・・みたいな分析でしょうか。

特に、内田樹・上野千鶴子・孫崎享・宮台真司(敬称略)といった、平成時代に一世を風靡したけど今はかなり「????」という存在になってしまっている人たちに対してバッサバッサ斬りまくってる記述が面白かったです。

なんにせよ、「自民党政治がムカつくから単にその逆を言ってやろう」みたいな感じじゃなく、各人なりに脊髄反射じゃない世界の見方を打ち立てようとするのが知識人の責任じゃないのか!みたいな矜持を感じるとても良い本でした。

なんか、人間って具体的な人物名が凄く意識にはっきり現れる人と、もっと抽象度の高い「社会の流れ」みたいなものを見る人と・・・と結構分かれるなと思うんですよね。

僕は明らかに「社会の流れ」派で、昔会社づとめをしていた時には、「●●部長派と●●チームリーダーは派閥が違うから両方と話しているとアレコレ」みたいな事を言われて脳みそが全然ついていかなかった記憶とかあるんですけど。

しかし、これは今回連動のファインダーズ記事で紹介した福島香織さんの本を読んでいても同じことを感じるんですが、実際の社会は「大きな流れ」とともにその具現化としての「個人」が動かしているので、そういう「具体的な個人名レベル」の派閥争いのこともちゃんと理解できないと本当に解像度が高い現実認識は持てないんだな・・・って最近思います。

一個後の記事で書く自民党総裁選の話とかについてまさにそう思うわけですが・・・↓

與那覇潤さんの本は、「知的さ」を失わないままに、ザツに「抽象的な流れ」に押し込んでしまわないで、色んな学者とか政治家とかメディア人とかの個人名を出した上でそれらの人間関係から細部を読み解いていく姿勢が、自分にとって体験したことのないような発想で物凄く新鮮な発見がありました。

では、この「平成史」を読み解きながら平成時代の混乱を振り返ってみるとどういう時代だったと言えるんでしょうか。

2●平成時代は、自分たち独自のビジョンを描くことができずただアメリカのマネをしようとしてはできずに混乱するだけで終わった時代

與那覇潤さんの本は本当に物凄く細部まで行き届いている本で、自分は同時代を生きていたはずなのに、「へえ、この時代にこの人がこういうこと言い出したから結果としてこういう政治日程になったのね」みたいな発見がたくさんあったんですけど。

そういうのを一通り読んだ上で、じゃあ平成時代30年間を振り返るとどんな時代ったのかな・・・と考えると、

「昭和天皇も共産主義も」なくなって「社会が目指すビジョン」が雲散霧消した中で、とりあえず「アメリカのマネをあちこちでやってみよう」とやってみたけどやりきれずにグダグダし続けた時代

だったと言えるのかなと思いました。

特に、いわゆる「小泉竹中改革」的な流れが平成時代の重要なムーブメントだったんですが、そういうのは当初、「右派よりも左派」の役割も大きかったという話が印象的だった。

つまり、「市場原理主義」的なものが導入されたのは、それが「昭和的な重い共同体」みたいなのを解体して左派的な個人主義者にとって生きやすい風通しのある社会を目指すムーブメントに後押しされて実現したのだ・・・みたいな話でしょうか。

まあその狙いは、結構今30年経ってみれば成功していると言えなくもないというか、もちろんそういう方式による経済的問題はあるけど、「昭和のガンバリズム(死語)」的なものの抑圧はある程度押しのけられる社会に地続きに変わってこれているという感じはありますね。

とはいえ、そうやって「特にビジョンも定見もなくアメリカの後追いをする」みたいな動きは、主に経済格差的な問題から反発が起きて途中で頓挫するわけですよね。

「アメリカにも良い部分と悪い部分がある」わけなので、悪い部分を全然見ずに「アメリカの良い部分」だけ選択的に取り入れようとしても無理があるわけで。

結局「社会のアメリカ化」はどこかで限界が来て、かといって目指すべきビジョンも見当たらず、最近流行の言葉で言えば「改革やってるふり」的状況で脊髄反射的なテーマが次々と提示されては、どこにも動けずに停止し続けたのが平成時代の後半だったと言えるかもしれない。

「改革やってるふり」って今は自民党政権のことを批判するワードとして流行ってますけど、平成時代全体を見ると、政権支持派も政権批判派も、誰も「一貫した具体的な改革プランやビジョン」がない状態のままで、「相手側を批判する事自体が自己目的化した」ような言論を続けてきたのではないか、という反省をするべき時ではあると思います。

ただ、與那覇さんの本はそのへんの「当時の時代背景とその中で出てきた言論の関係」をかなり細部まで描写しているので、読んでいるウチに、「この時期にこういう事言い出す気持ちはわからんでもないなあ」という感じもしたんですよね。

内田樹氏とか上野千鶴子氏とか、この本で「バッサバッサ」斬られている論客さんたちも、細部まで当時の事情を読み込ませてもらえると、「ははあ、自分もこの立場ならこうなってたかもなあ」とむしろ切実な共感を感じさせられる部分はある。

だから、

「それなりにみんな必死に、”完成するはずのないパズル”をこね回してきたのだ」

ぐらいの理解はしていいのかな、と思っています。

ここでなぜ「完成するはずのないピースの足りないパズル」みたいな印象を私が持つかというと、それは「平成時代の日本はグダグダであったことに意味があった」と考えているからなんですよね。

3●平成時代の日本の「外部環境」を問い直す

與那覇さんの本みたいに「網羅的」に色んな意見の派閥がどう生まれてきたのかを追ってもらえると、自分オリジナルな発想だと思っていたものが、どこのどういう学者さんがどういう状況で言い出した事が断片的に伝わってきて自分がこう育ったのか・・・みたいなのが次々と明らかになってめっちゃ勉強になったんですけど。

そうやって「自分オリジナルと思ってたものが受け売りだった」を色々と排除していった上で、じゃあここに「自分が」付け加えるべきと考える論点はどこにあるのかな?と考えると、それは「平成時代の日本の外部環境」を考えるってことなんですよね。

要するに昭和時代の最後に世界一レベルの金持ちになった日本社会は、同時に世界中(特に米国)からバッシングを受けて、湾岸戦争以降の「国際協力とは」問題とかも含めて、どうすれば自分が自分でいていいのかわけがわからなくなってしまったわけですよね。

「世界一の繁栄」という坂の上の雲にめがけて必死に上り坂を登ってたうちは迷わなくてよかったですけど、いざ「世界一」になる寸前でそれが自分たちの手をすべりおちて、世界中からバッシングされるは国内でも次々と問題が発生する中で、単にちょこっと再度経済繁栄するってわけにはいかなくなってるんですよね。

要するに

「世界一を一瞬かいま見た世代」が大量に生きている日本

では、

「世界一を一瞬かいま見た存在なりの”次の課題”に答えを出さないと次に進めない状況にある」

わけです。「坂の上の雲」を目指してとりあえず繁栄を目指している国とはそもそもの課題が全然違う。

では、「世界一を垣間見た瞬間」に日本人が深く思い知った課題とはなんなのか?

4●”賭場の胴元”の事情も考えてこそ繁栄できるという真実

池田勇人内閣時代の日本の高度経済成長を理論的に主導した経済学者の下村治という人がいるんですが、この人が昭和末期の1987年に

日本は悪くない 悪いのはアメリカだ

というド直球(笑)のタイトルの本を出していたのが物凄い印象的だったんですよね。

当時のアメリカの「日本たたき」って凄かったですし、(同時に「ジャパンマネー」が世界中の色んなものを買いまくるパワーも物凄かったわけですが)、今までイケイケでこれた日本人にとって驚天動地の大問題だったわけですけど。

「公正な経済競争の結果としての繁栄なんだから文句をつける方がおかしい。アメリカの要求は間違っている」

という主張は、「ベタ」なレベルでは正しいはずなんですよ。整備されたルールの上での対等なゲームプレイヤー同士の関係としてみればアメリカの要求は不当であると。

しかしね、一方でこれは、

「賭場の胴元が倒れるほど勝ったってその勝ちを回収できるはずがない」

的な人間社会の真実にぶち当たっているとも言えるわけですよね。

そもそも「公正な市場競争」という環境自体が、無料で手に入るようなものではなくて、アメリカという装置をベースに成立させている非常に「人工的な贅沢品」なわけですよ。

その中で「単なる参加者」でしかない存在が、ただ単に「ゲームのルールに従ってるんだから文句は無いだろう」という形で一人勝ちをしまくっても、その事で賭場の胴元が倒れちゃったりしたらそのゲーム自体が成立しなくなるわけですよね。

だから、日本の高度経済成長を支えた下村治が、

日本は悪くない 悪いのはアメリカだ

というド直球なタイトルの本を出すような叫びの中にこそ、日本社会がその後向き合わなくてはならなくなった

「人類社会の究極の真実」

が存在するわけです。

つまり、日本社会が「昭和末期以上に繁栄する」道を見出すには、「どこまでも行ける見通し」が必要になっているんですね。

単に「自分の成功」だけを追い求めていったら人類社会が成り立たなくなる・・・的な構造にならないように、「アメリカ的構造と対決せず、補完的構造を維持することによって共存共栄する道を探す」という物凄く難しいミッションが課せられている。

「賭場の経営」も考えながらやることで、その場でのギャンブルで勝ちまくってもちゃんと払いを受け取ることが可能になる。

こんな「課題」を1億人レベルで本能的には共有して考え続けるって、一度「世界一を垣間見る」ところまで行かないとできないことなので、そういう意味では「平成時代の30年」は日本ならではのユニークな課題に真剣に向き合ってきた時間だったと言っていいと私は考えています。

5●「中国切腹日本介錯論」的な我慢の時代だったとポジティブに考えよう

で、今回の連動ファインダーズ記事で書いた日中戦争時代の事例をここで考えてみたいんですよね。

日中戦争時代、中国では「日本切腹中国介錯論」という戦略が提唱されていて、中国は日中戦争で日本に負けまくれば、日本が調子に乗りまくることで日本を「国際社会の敵」に仕立て上げることができるので、そしたら中国が日本に勝てる・・・という話です。

今の日本は、平成時代30年間の一貫した本能的選択の積み重ねによって、逆に「中国切腹日本介錯論」的な戦略を実現するところまでこれているわけですよ。

「アメリカという賭場の胴元」との対立を避けて「ルールに則ったフェアな対決レベルの競争」”すらせず”に、ただただ自分の身を小さくして小さくして「共存」できる位置取りを探し続けて30年我慢してきた。

そうやって日本自身は「負け続ける」ことで、「矢面に立つ」活躍は台湾や韓国や、そして中国に譲り続けてここまでやってきた。

結果として、日中戦争末期に日本がしてやられたようなことを、そっくりそのまま中国にやり返すことができた。

最近、欧米諸国の空母と自衛隊の船が揃い踏みに航海してる画像を見て「20世紀なかばとは違う道を選べた」と言ってる日本の右翼さんのツイートを最近見かけましたけど、「過ちは繰り返さないように」頑張ってきただけの位置取りはできていると言って良いと思います。

最近何回も言っているように、「米中冷戦」状態になり、中国単体のGDPが米国を超えるとしても、日米両国の合計を超えることは難しい・・・という状況下において、日本の繁栄を米国は決して止めることができなくなる本当の「共存共栄」関係が生まれるからなんですね。

だから、「平成時代のグダグダの30年間」は、「国内」だけ見ていると本当に救いようがないぐらいグダグダだったですけど、「グダグダだったこと自体に国際的・世界史的に見ると意味があった」わけですよ。

そういう風に見ることで、内輪では凄い敵対的対立に見えてきた色んな日本人同士の争い事も、

「まあアノ時はアレが必要だったってことなんだよな!」

と総括できる可能性が見えてくると言っていいと思います。

でもこれ、単に「日本が後腐れなく繁栄するために”やられ役”を中国におっかぶせた」みたいな見方をすると凄いヒドイ奴って感じなんですが、しかし日本が「こういう戦略」を取ることには世界人類にとっても新しい可能性が生まれるというか、むしろ「世界戦争しないためには日本がこういう役割を果たすことが重要」みたいなレベルの話もあるんですよ。次↓はその話をしたいんですけど。

6●「繁栄のボーナスタイム」を「世界平和への本当の責任感」のために使う

何度も言ってるとおり、米中冷戦の時代には日本は特異な「繁栄のボーナスタイム」を引き寄せられるチャンスがあるわけですけど、それを単に「自分たちのエゴ」に使ったらサイアクなヤツなわけですよ。

そこで、米中冷戦の時代に日本が打ち立てていくべき旗印がどういうものか・・・っていうのが、一個前のnoteで書いた「ヤンキーの気持ちがわかる優等生」路線なんですよね。

「米国主導の世界秩序」というのは、「米国が提示する理想」ゆえに常に「米国民以外の世界人類全員も、本来は米国人レベルの主張ができるはずじゃないか」的なチャレンジを受け続けるので不可避的に不安定化するわけですよ。

普通にルールに基づいた競争をしているだけでも、1940年代の日本、1980年代末期の日本、そして今の中国のように、「覇権への挑戦者」が生まれてきてしまう。

で、「覇権への挑戦者」が生まれる時っていうのは人類史上世界戦争の危機がほぼ確実に起こるわけですが、80年代の日本の場合はその前の日米戦争の記憶があるから戦争にならずに日本が譲歩する形で決着しましたけど、中国の場合はそうじゃないから物凄い危機的状況なわけですよね。

だからこそ、まず日本は「旗幟鮮明に自由主義陣営サイドを擁護」することが大事で、日米(+欧米諸国+台湾やインドや韓国)の一体感でもって「火を吹く戦争」は抑止する情勢を作るということが第一優先で。

そして次に、「ヤンキーの気持ちがわかる優等生」的な態度を持って欧米サイドと非欧米サイドを文化的に融和する役割を日本が果たすことが期待されている。

「自分たちの伝統的なあり方を上から目線で”人権思想に反してる”とか断罪されるとムカつくよね。お前らこの地域のローカル社会の人心の細部について何を知ってるんだカスが!っていう気持ちになるよね」

的な共感関係は一応持ちつつ、国際政治において明示的に「自由主義陣営」であることを選択し、そして「社会の伝統や人心の綾」と「欧米的理想」がどちらが上という押し付けをできる限り利用しないで地続きに溶け合うようにしていくこと。

なんせ、「そういう存在がいないと世界戦争になっちゃうよね」というレベルの瀬戸際に人類社会はあるんで、われわれ日本人が夏目漱石以来感じている「知と情と意地のぶつかりあい」みたいな問題を、そのまま単純に割り切らずに向き合い続け、欧米的なものでも「反欧米」的でもない徹底的にオリジナルな社会運営の形を見出していければ、そういう存在が繁栄しないことなどありえないというレベルの希少価値を持っていくでしょう。

7●グダグダの平成30年間はグダグダさに意味があったのだ!

「ジョジョの奇妙な冒険」には、承太郎vsDIOとか、ブチャラティvsペッシとか、「自分の心臓をあえて止めることで敵の近くまで近寄って必殺の攻撃をするシーン」が何度か出てきますが、平成時代の日本がまさにソレなんですよね。

つまり平成時代30年間の「グダグダさ」というのは、

今何もしないってのが・・・・・. オレの・・・. 「覚悟」だ・・・・・!!(ブチャラティ)

的な準備をしてこれたのだ、っていう風に捉えることが重要なんですよ。

なんにせよ「大戦略がある」とか言ったって、「負け続ける」ことが嬉しい人っていないわけで、オリジナルの日中戦争時の中国で「日本切腹中国介錯論」が言われていた時には、

「そんなことをしたら、国民党政権の正統性が吹き飛んで、最終的に中国は共産化してしまう」

という予想が語られていたそうですが、実際に全くそのとおりになりましたよね。

日本における「平成30年間の”今何もしないってのが俺の覚悟”作戦」も、たしかに国内的に色んなイビツさを生んでいたと思うんですよね。

単に「欧米型の個人主義」を無限大に導入していくだけだとこの「みんなのための作戦」が吹き飛んでしまうので、色々と左派的感性からすると抑圧的に見えるような要素も必要になっていた部分もあるでしょう。

しかし、その「我慢の30年間」あってこそ、「欧米的理想と非欧米社会のリアリティ」を「1ミリもどっちが上とかいう価値観を利用せずに溶け合わせ」、今は人類社会の1割程度の特権階級の欧米社会以外に「染み出していかない理想」を、無無理な地続きの人間関係の構造の中で「広い範囲につないでいく」希望としての旗印を掲げていく可能性を持てるところまで来ているわけです。

まあ、今の日本は結構混乱しまくってますけど、コロナ禍のトンネルを抜けたあたりからその「平成時代の我慢を取り戻す繁栄」の道は見えてくるので、信じて生きていきましょう。

今回記事の無料部分はここまでです。

ここ以降は、ちょっと唐突ですが、なんか今回の記事で扱った問題とかなり相似形でもあるような、「日本国全体に対する東京という街の特権性」をどう考えるのか・・・みたいな話をします。

なんか、與那覇さんはたぶん東京近郊の生まれ育ちだと思うんですが、名古屋の大学に赴任されてしばらく活躍されていたんですけど、鬱病を患われて退職されて、今は回復して作家みたいになられてるんですよね。

鬱病以前の彼の本もちらほら読んだ事がありますが、鬱病以後の本の方が圧倒的に迫力があるというか、「凄い面白い!」と感じる本が多くて、こんなことを言うのはちょっと問題があるかもしれませんが、彼にとって病気体験は「必要なこと」だったのかもしれないと感じる部分はあります。

で、それはいいんですが、彼はあっちこっちで散発的に名古屋ディスるんですよね(笑)。いやディスってる自覚ないと思うんですが、凄い「俺はこんな地方にいる人間じゃないのに」的なことを感じていたのを伺わせる記述がチラホラある(笑)

この「平成史」の本でも、彼の勤務校があった沿線に新しくできたショッピングモールについてナチュラルに感じ悪いこと言ってて(笑)

僕は妻が名古屋出身で縁があるし、妻の実家に近いので”まさにその沿線のまさにそのショッピングモール”が結構好きだったんですよ。

東京出身のインテリの人のこの「目線」ってなんなんだろうな?って、別にそんなに「断罪」したいわけじゃないし、それが彼の誠実さが欠けていることを意味するとかそういうことを言いたいわけでは一切ないんですが、単純に”苦笑させられる”ところがあるというか、

「いやいや、今結構ナチュラルに感じ悪いこと言ってるの気づいてないんスか」

って思う瞬間があるなあ・・・という話と、しかしそういう「東京にまつわるイビツさ」は、今は問題だけど、将来うまく働き出せば日本全体とってポジティブな意味を持つだろう・・・って話もしたいんですよね。

與那覇さんが名古屋の勤務校の環境にも耐えられなかった(とはいえ世界的に見れば名古屋ってかなりの大都会と言っていいレベルと思うんですが)ことと、彼が書く「平成史」が濃密な人間関係の細部まで描ける「東京のインテリ集団の中のインサイダー感」ゆえの洞察にあふれていることは結構表裏一体だと思うしね。

そのへん、「今後の日本における東京の可能性」みたいな話をしたいと思います。

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