不登校からの卒業(20)
学校での集団生活は「空気」が支配する
~不登校を見つめる(3)〜
友達や話せる人の存在は、学校に通い続けるには大きな影響があるのですが、それにも限界があるのです。
学校というところは、いわゆる「みんなと同じ」ことを求められるところです。
個人一人ひとりを大切にする時代になっていても、まだ、「みんなと同じ」ことを求められるのです。
遠足、体育祭や文化祭、野外活動、修学旅行などの行事は、原則、集団行動です。
日頃の授業にしても、主体的・対話的な学びと個別最適化が言われ、子ども一人ひとりへの対応が、以前にも増して重視されるようにはなりました。
それでも、グループ学習、班活動などは、少人数とはいえ、集団生活、集団活動を求められます。
子どもがそれぞれの意見を言えて、しっかりと議論ができる環境であればいいのですが、そうでない場合も多く、一般的に言えばいわゆる「同調圧力」を感じる子どももいるのです。
これは、学校あるいはそのクラスが持つ独特の「空気」によるものだと言ってもいいかもしれません。
この「空気」を敏感に感じ取る子ども達がいるのです。
これまでお話してきたように、感じ取る子ども達は、考えて理解しているわけではないので、言語化できないことがほとんどです。
感じた「空気」に違和感や不安感を感じると、しんどくなり、学校に行けなくなっていくことがあるのです。
これが、「感じる自分」による不登校だと、以前から私は申し上げているのです。
この「空気」は、いじめを生むこともあると、私は思っています。
そもそも、いじめが止められないのはなぜか、疑問に思ったことはありませんか?
いじめている数人の子ども達と、いじめられている子どもがいても、それ以外の多くの子ども達が周りにいるのです。
多くの子どもがいじめている側になっていることもあります。
だけども、周りにいる傍観者的な子ども達は、いじめは良くないと思っているのに、止めることはないのです。
これは、自分が標的になることを恐れる、ということが最も強い「同調圧力」になっていることがあるのですが、それは、裏を返せば、今、目の前で繰り広げられているいじめを、容認しているとも言えるのです。
これは、いじめが発生するときには、いじめている側の子ども達が、いじめられている子どもに対して、少しいじめてみて、抵抗されないか、周りから圧力がかかり止められないかを、必ずと言っていいほど、確認しています。
この段階「いじめ」の一歩手前なのですが、ここで、抵抗にあわない、周りからも邪魔されないということがわかって、徐々にエスカレートしていくのです。
ですから、ある意味で「いじめ」を行っても大丈夫な「空気」を作り、その大前提に他の子ども達を巻き込み、「同調圧力」によって、傍観者的な子ども達にも何も言わさないようにしているのです。
しかも、いじめられている子どもからの思わぬ反撃により、その「空気」が壊れ、他の子ども達が一斉にいじめている側に対して圧力をかけた場合は、危険を察知してすぐに手を引きます。
しかし、しばらくして標的を変えて、また、同じようにいじめを繰り替えしてくるのです。
このように、学校での集団生活、集団行動は、「空気」というものによって支配されていると言ってもいいと、長い間、私は考えてきました。
この「空気」が、楽しい学校生活も作り出せば、不登校やいじめをも生み出すのです。
そういう場が学校なのであると、私は思うのです。