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子どもも他人も変えられない(9)

不登校の子どもが「自分を信じる」

これまで、不登校であってもなくても、子どもそのものの存在を喜べることが、大人はできなくなっている、というお話をさせていただきました。

子どもそのものの存在ではなく、何かをした、結果を出した、そのことに対して、「ほめる」ことで「自信」をつけさせ、「自己肯定感」を上げようとすることが、実は、不登校になった子どもを苦しめている、ということをお話したのです。

さて、そこで、子どもそのものの存在を認め、喜べるようになったとしたら、子どもは、きっと、自分を信じることができるようになると思います。

この「自分を信じる」ことと、「自信を持つ」ことは、似て非なるものと、私は考えています。

似ているのですが、大きな違いがあります。

前回もお伝えしたのですが、「自信」というのは、自分の外側の何かを行い、結果を出した結果、「自信」がつく、「自信」が持てるとなります。

ところが、「自分を信じる」というのは、自分の内側に向いています。

外側のことに左右されることが全くないとは言いませんが、外側のことでなはく、自分の内側の「心」という、自分の中のものに対して、「信じる」ことなのです。

外側の結果によるのか、内側の「自分」というものなのかは、ものすごく大きな違いだと、私は思うのです。

ここで、「自分を信じる」のは「自分の能力」ではありません。

「能力」というのは「外側の何かをできる力」なので、結果にひもづいてしまうからです。

この自分の内側のことというのは、あくまで「心」、もっと言えば、「ただ、自分を信じるだけ」と言ってもいいかもしれません。

何かを信じるという表現をするなら、「自分を信じる」なので、対象は自分そのものです。

ですから、学校行けなくなった子どもは、「自分を信じる」ことなど到底できません。

しかし、自分の存在を、お母様が認めてくれることで、自分は自分として存在して良いのだという「自己存在感」をしっかり持つことができたときに、はじめて、「自分を信じる」ことができます。

そうしたときに、自分を信じて、もう一度、動き出すことができるのです。

これが、良く言われる「エネルギーがたまる」ということだと、私はずっと考えてきました。

ほめて、自信をつけて、自己肯定感を上げることが、学校が行ってきたことと言えると思います。

それが悪いと言っているのではありません。

それは、あくまでその前に、「自己存在感」をしっかり持てて、「自分を信じる」ことができ、そのことで、外側のことに対応できる状態を作ってからのことだと思うのです。


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