7年前の今日は母が亡くなる5日前
こんばんは!けいしょーです。
2020年9月23日。
9月27日が私の母の命日でそのことについて考えていると7年前の今日がちょうど最期の入院が始まった日であることを思い出しました。
今回は母が亡くなる直前のことを振り返ります。
体調の悪化、それでも他人の手を借りたくなかった母
2013年の9月、私の母は癌を患っていて、全身転移していました。
それまでに何度も入退院を繰り返しており、病院で過ごすことを嫌っていたため、母の実家で療養をしていました。
母が亡くなる8日程前にもなれば、当時高校3年生だった私でもわかるほどに衰弱していることが分かっていました。
私は夜中にトイレに行こうと廊下を歩いていると、廊下上で母が横たわっているのが分かりました。
明らかに苦しそうにしているのが分かるので手を貸そうとしたら、「いらない。自分で行く」と言う母。迫りくる病気の進行に対して必死に抗っていました。
そんな母を見て病気の進行がかなり思わしくないことに嘆くと同時にただ見てやることしかできない自分を責めることしかできなかったことを覚えています。
その次の日、母はさらに苦しそうにしていました。
これはもう病院に連れて行かなければ持たない。誰が見ても明白でした。
別の病院に断られる、それほど母の病状が進行していた
実家は田舎文化で近所コミュニティがありました。
知り合いの看護師さんが腕利きの良い医者を紹介すると言い出したので、急いでその病院に搬送しました。
しかしながら、母の病状はかなり悪いため、元々かかっていた病院に行ってくれ、と言われ結局地元の病院に行くことに。
(これまで病院にかかっていましたし、セカンドオピニオンもやってきました。その上で祖母が知り合いの看護師に頼んだみたいです。断られるのは病院事情や母の病状を見ると仕方ないことだと分かっています。あの時、私だけでなく周囲の大人がみんな慌てていたのだと思っています。)
救急車を出す時間も無く、タクシーで急ぎました。
タクシー運転手の方も母の様子を見て危険を察知したようで、かなりのスピードを出してくれていたことを覚えています。
道中母が僕に向かって言いました。
「本当にごめんね。」
そんなことないから謝らないでくれよ、と思いました。
今思えば、母が理性をもって話した最期の言葉だったかもしれません。
そして病院につき即入院でした。
体の至るところに管が繋がれました。
主治医から宣告
「持って1週間です」
ついてから主治医に言われました。
分かっていたけれど、現実を受け止められませんでした。
ここから入退院を繰り返して逝ってしまうものだと思っていたのに。
「俺はまだ高校3年だよ。なんにも親孝行できないで死なれたらやるせないよ・・」
「もっと話したいこと、教えてもらいたいこといっぱいあったのに・・」
「お母さんがいなくなったらどうすればいいの・・」
悲しくて悔しくてしょうがなかった。
それでも息子や仕事のことを考える母
苦しみに波があり、話せる状態、苦しそうにする状態、寝たきりの状態を繰り返しました。
母は入院してまともな言葉を発せなくなりましたが、それでも話す内容は私のことや仕事のことでした。
「あんた、ごはん食べたの?パスタ作ったから食べなさい」
「あそこに配達していないから今から行かなくちゃ」(母は自営業で配達をしていました)
こんなに追い込まれているのに、まだ私のことを考えている。
最期まで心配してくれてありがとう。
時間とともに寝ている時間が長くなる
母は時間とともに寝ている時間が長くなりました。
病気が進行し、死に迫っていました。
残りの時間で母の親族をはじめ中の良かった友人を面会させました。
一通り面会を終え、最期の準備が整った入院5日目の9月27日に親族に見守られながら母は息を引き取りました。
死まで徐々に呼吸が浅くなる姿が1つの灯が消えかかる様子に似ていたことが記憶に残っています。
あの時感じたことは徐々に忘れる
ふとあの時のことを思い出せたため今回はnoteに書きました。
こうした記憶は悲しく悔しく思い出すだけできついのですが、自分の大切な記憶の1つでもあります。
時間が経つと忘れてしまい、忘れることに対して悲しくなります。
今日はあの時の記憶が久々に蘇ってきたので、この期を逃さまいと思いつづらせていただきました。
誰もがこういったことを自由に発信して残すことができる時代。
お母さんが生きていたころとちょっとだけ世の中変わってるよ。
けいしょー