年のはじめの琥珀と井戸 #ほろよい文学
正月の朝、薄い雪化粧を纏った街は、不思議なほど静まりかえっている。まるで深夜の映画館で人々が去った後の客席のように、そこだけ時間が取り残されているかのようだ。わたしはキッチンで湯を沸かしながら、棚からお気に入りのウイスキーを取り出す。瓶越しにこぼれる琥珀色の光が、どこか温もりを含んでいて、年のはじめにふさわしい柔らかさを漂わせている。
氷を二、三個落とし込んだロックグラスに液体を注ぎ、それを持ってリビングのソファに腰を下ろす。ついでにCDプレーヤーのスイッチを入れる。スピーカーから流れ出したのは、ビル・エヴァンスのピアノトリオ。ささやくようなタッチで始まるイントロが、部屋の空気をやさしく揺らしていく。最近、朝っぱらからジャズを聴くなんて滅多になかった。けれど、正月だからいいじゃないか、と自分を納得させてもうひと口ウイスキーを含む。
ほんのりとアルコールが体の中に染み込んでいくと、不思議なほど思考がまとまってくるから不思議だ。フロアランプの淡い明かりに照らされた室内で、目の前に並べてある本の背表紙を何となく眺める。すると自然に村上春樹の小説に手が伸びる。
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』。ちょうど昨日“井戸”のイメージが夢に出てきて、少しだけ胸騒ぎを覚えたからかもしれない。
ページを開き、最初の文章に目を落とすと、少しずつ現実が滲んでいくような感覚を覚える。ここではないどこかに通じる境界線が、ふわりと浮かび上がり、やわらかくわたしを包み込む。
朝の静けさとビル・エヴァンスのピアノが相まって、まるで自分だけが別の層に入り込んでいくようだ。村上作品の登場人物のように、ただ流れに身を委ねればいいのだろう。
スピーカーの音量をほんの少しだけ上げる。ピアノのフレーズが、ウイスキーの香りと絡まりあいながら部屋に満ちていく。思えばジャズとウイスキー、そして村上春樹。この三つを同時に味わうというのは、ある種の贅沢なのかもしれない。どれもが余白を残していて、言葉にならない部分をそっと刺激してくれる。まるで言語化しきれない想いを、ほんの少しだけ解き放ってくれるように。
ページをめくりながら、わたしは井戸の底を覗き込む主人公の姿を思い浮かべる。世界の始まりと終わりの境目を行き来するような、あの不可思議な感覚。正月の朝だというのに、こんな物語の世界へ逃避していいのだろうか。いや、むしろ正月だからこそ、そういう余計な常識を振り払う時間が必要なのかもしれない。年末の慌ただしさから解放された今だからこそ、心の片隅に積もっている言いようのないものにじっくりと向き合いたい。
ウイスキーを口にふくむと、氷が溶けかけてほどよくまろやかになった液体が、舌の上をやさしく流れ落ちていく。まるで遠い記憶の断片を掬い上げるように、わたしの意識は過去と現在のあいだを漂いはじめる。
CDはリピート再生され続けていた。ビル・エヴァンスのソロがひと段落し、ベースが淡々とリズムを刻み始めるころには、部屋の照明もいつのまにか少しだけ明るさを増していた。
外を見ると、白い雪がやわらかな朝日を受けて、かすかに光を反射している。時計の針はまだ早朝を指しているのに、心はゆったりと時間を過ごしている。家族の誰かが目覚めて「おめでとう」と声をかけに来る前の、ほんのわずかな一人の時間。その特権みたいなものを、わたしは噛みしめていた。
本のページを指先でなぞりながら、今年はいったいどんなことが待ち受けているのだろう、とぼんやり考える。村上作品を読み進めるうちに、自分の人生や心の奥底に隠れている“井戸”を、ちょっと覗いてみたくなる衝動が生まれてくる。読書が終わったら、近くの神社へ初詣に行こうか。それとも、もう少しジャズをかけて、このまま静かに酔いの余韻にひたっていようか。
ウイスキーの残りはあと半分ほど。そろそろ正月の朝の匂いが漂ってきてもおかしくない時間帯だろう。だけど、わたしはもう少しこのまま、ピアノの余韻が耳に溶け込む空間に留まっていたいと思った。何と言っても、年始の朝の特別な儀式みたいなものなのだから。
最後の音が静かに消えたあと、わたしはグラスを手に取ってキッチンへ向かう。正月らしくはないかもしれないけれど、このほろ酔いと村上春樹の世界観、そして心地よいジャズの響きが、今年のスタートを心の深いところで支えてくれそうな気がするのだ。たとえ新しい一年がどんな展開を見せたとしても、この朝の小さな瞬間だけは、わたしにとって揺るぎない拠り所となってくれるはずだ。
そう自分に言い聞かせながら、ウイスキーの澄んだ香りにかすかな安堵を感じ、もういちど心の中の“井戸”を覗き込んでみる。そこには、まだ誰も知らない光のかけらが潜んでいるかもしれない。ほのかなピアノの残響を背景に、わたしはそっと眼を閉じる。
こうして年のはじめの朝が、穏やかに、そしてほんの少しだけ不思議なニュアンスを伴って、ゆっくりと動き出す。