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十万円の行方・前編

お上からお金を貰えるらしい。しかも、十万円。
それなりにまとまった額だ。
世間の声は色々とあるようだが、単純にお金を貰えるのは嬉しい。
嬉しいものに理由を求めない、怒りに身を任せない、愛に見返りを求めないのが人生のコツである。

振り返ってみると、十万円をポンともらうということが今までの人生で二度ほどあった。
一度目は遠方に住む父方の祖父母が、孫へのお小遣いとして500円硬貨で作ってきた十万円であった。大量の五百円玉を包んだ布を手渡された時の重さはいまだに覚えている。ちなみにその後、小学校入学祝いとして更に高額のお小遣いを入金してもらったので、金銭的な価値としてはそちらの口座に吸収合併された。

二度目は、最初の転職で文字通り転がり込んだ会社での話だ。
その会社は特定の業界の仕事を、頭からケツまで一社で賄える事が売りだったのだが、そのワークフローとはまったく別で、ワンマン社長が独断と偏見に基づく仕事をやっており、その手伝いの対価として封筒に入った十万円を手渡しされた。由緒正しき、資本主義に基づくものだ。10万でも安かったと今なら思う。

それぞれ、何に使ったかというとイマイチ覚えていない。一度目は学費だろうか。二度目の方は飲んだり食ったり機材買ったりで消えた気もする。いや、間違いなくそうだろう。食道楽が金を持っているのに食わねば、その名が廃る。

そんなこんなで、三度目の正直である。何に使うかは悩みどころだ。大人になって感じるのは、働いて10万円得るのはそれなりに大変ということだ。学生時代は漠然と、大人は金に余裕出るでしょと思っていたが、大間違いであった。

この記事を書くにあたり、まずは十万円を物質としてしっかり捉えてみようと考えた。
タンス預金から引っこ抜いてきて、手元に十万円がある。思い立ったら早いのが私の良い点だ。
この記事のサムネイルはそんな画像である。
今となっては前回の西瓜も、こうすれば見栄えのいい記事になったかもしれないなと思ったが、残念なことに、西瓜の美味い部分は一つ残らず腹の中へと消えたので、今後また西瓜の記事を書く事があれば写真を忘れないようにしよう。

十万円に戻ろう。まず、数を数えて、サイズを確かめ、福澤諭吉の顔を見ている。この一人一人が(同じ人間を指して一人一人という表現は正しいのか?)、それぞれ時給千円の仕事10時間分の価値があると考えると、一枚一枚違った表情な気もしてくる。楽しく稼いだ福澤諭吉、怒りながら稼いだ福澤諭吉、怒られ泣きながら稼いだ諭吉、夜勤の諭吉、博打で転がり込んできた諭吉…悲喜交交であり、それぞれの諭吉の人生はオンリーワンだ。そんな諭吉の集合体が今目の前にある。

あまり気にした事もなかったが、触り心地も存外いい。
適度にザラついているいるからか、何せ指が滑らない、濡れた手で触ったりしてもしっかりと摘む事が出来そうだ。これには感心した。
もしもコレが何の凹凸もないツルッツルの諭吉だったとしたら、酔って会計をする際に、手元からツルン!床をツルン!踏んだ人間もツルン!といって、下手な人間が踏んで滑ったとなれば、更に多くの諭吉が財布から出ていく羽目になりかねない。高額紙幣を使う時なんて、もっぱら酒が絡むのだから、大変意味のあるザラザラ感だ。

紙幣の特徴といえば、透かしである。もちろん諭吉も透けている。
シースルー諭吉。透かして見てみると、何と諭吉の左目に真っ直ぐ線が入っている。和服なせいか、あわや柳生十兵衛といった趣だ。
しかし、中には両眼ともに無事な諭吉もいる。理由はというと折り方だ。
ピン札はもちろん折り目などないが、三つ折りも良い、ちょうど透かしの部分を避けて折り目がついているので、その中に鎮座する諭吉に被りようがない。
問題なのは二つ折りだ。一般的にお札を二つに折る場合、真ん中から折るだろう。真ん中というのが問題だ。なんせ透かしはお札のど真ん中にあるのだから、勿論その中の諭吉だってバッサリとやられてしまう。
哀れ諭吉…と、思って全体を見ると、三つ折りの場合は表に見えている右側の諭吉の右目をバッサリとやっていた。

えー…
使い方の話まで到達できなかったので後編に続きます。


#エッセイ #今わたしに出来る事 #十万円 #時事ネタ #政治 #資本主義 #福澤諭吉

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