【試し読み】地下出版のメディア史 高級エロに命をかけた知識人たち
あなたは知っているだろうか? 戦前昭和の日本において、高級エロに命をかけ、教養合戦を繰り広げた知識人たちを……。
戦後、日本の近代出版文化は、しばしば岩波書店と講談社に代表される「知識人/大衆」という教養主義的な対比構造によって論じられてきました。3月に刊行した『地下出版のメディア史――エロ・グロ、珍書屋、教養主義』(大尾侑子著)は、この図式に収まりきらない非正統的で「知的」な地下出版空間が存在したことを明らかにしています。道楽知識人たちが暗躍した出版文化の“裏通り”ともいうべき地下出版界の歴史をさまざまな図版とともに可視化し、メディア史的に体系化する一冊です。
今回はこちらの冒頭にあたる「序章」の一部を公開いたします。カストリ雑誌から漂う怪しげな臭気と熱気をぜひ味わっていただければ幸いです。
※注番号は省略しています。
序章 教養主義の「裏通り」
1 知的上昇と、「エロ・グロ」の交差点
終戦後、荒廃した日本社会に、ある特異な都市文化が花開いた。敗戦による紙不足の時代に仙花紙という粗悪な再生紙を使って印刷され、エロ・グロ雑誌として蔑視さえされてきたそのメディアは、三号ほどで廃刊することから“三合(三号)で潰れる”粗悪な酒(カストリ焼酎)になぞらえて、カストリ雑誌と呼ばれた(下の画像参照)。強烈な色刷りの表紙に描かれた魅惑的な肉体を備えた女性たちは、読者を誘惑するような眼差しでこちらを見つめている。活字に飢えた男たちが密かに自らを慰め、ボロボロになるまで回覧されたのちに焼却処分されたカストリ雑誌は「低俗」なものと見なされ、表立って語られてきたわけではない。
本書の目的に迫まるための足がかりとして、まずは『火垂るの墓』や『エロ事師』などの作品で知られる無頼派作家・野坂昭如による「カストリ」語りに目を向けてみよう。1946(昭和21)年当時を、野坂は次のように振り返る。
旧制高校とは、1894(明治27)年に高等中学校を改組して発足され、1947年の学制改革で廃止されるまで帝国大学予科の役割を果たした、いわばエリート男子学生向けの教育機関のことである。旧制高校受験を控えていた野坂青年にとって、岩波文庫とは「見栄みたいなもの」、つまりインテリ気分を満たすアイテムだったのだろう。そんな野坂が「知的好奇心の強い旧制高校の受験生が見栄をはって購入する岩波文庫」に対置させ、受験生にとって「無縁なもの」と表現したのが、カストリ雑誌だった。
出版産業が近代化し、大衆への読書行為が普及した1920年代を分岐点として、日本では読み物に対する「高級/低級」、「正統/非正統」という序列化がなされていった。「知識人読者の読むべきものとしては「高級雑誌」(当時における総合雑誌の呼称)や岩波書店に代表される教養主義的書物が、労働者の読むべきものとしては講談雑誌や『キング』をはじめとする大衆雑誌が、それぞれ知の頂点と底辺に位置するかたちでメディアのヒエラルキーが形成されていった」のである。
野坂昭如によるくだんの回想には、岩波書店が象徴する「正統」な書物に対して、通常は語られることのない(あるいは語ることすら憚られるであろう)「非正統」的な低俗出版物の世界があり、知的エリートは後者から距離を取る(ことを表明する)ものだという通俗的認識がよく表れている。「低俗な書物」をめぐる読書行為が声高に語られないとすれば、それは、「人びとが何を読むのかによって序列化される世界では、人びとは劣った存在だと見なされないように低俗な本を読んでいることを隠し、高尚な本を誇らしげに見せびらかす」と考えられるからだ。
しかし、本書の狙いは、「高級文化=岩波」対「低級文化=カストリ雑誌」のような、単純化された〈知‐書物〉の二項図式をなぞることではない。むしろ、こうした図式そのものを問い直すことにこそ、その主眼がある。長らく「低俗」なものと見なされてきた出版メディアも、その内実をひもとけば決して一枚岩ではなく、なかには「高級文化/低級文化」という境界設定をゆるがす第三極、いわば「高級文化としてのエロ・グロ」とでも呼びうる文化圏が広がっていた。それを示唆するように、前出の引用に続く箇所で、野坂はカストリ雑誌のなかに「結構なもの」と「お粗末なもの」があったことを、あえて強調している。
ここで問わねばならないのは、なぜカストリ雑誌という「低俗」なメディアのなかに、「結構なもの」と「お粗末なもの」というカテゴリー区分を設け、その差異に言及しなくてはならなかったのか、ということだ。その糸口を摑み、本書の問いをよりクリアにするために、もう少々、野坂の回想に耳を傾けてみよう。
本書の目的──「高級なエロ・グロ」? 性文化研究と教養の結びつき
「ぼくは、まあ普通程度に読書好きで、中学2年までに、春陽堂の明治大正文学全集、及び平凡社の大衆文学全集をあらかた読んでいた」、「岩波の漱石全集もほぼ眼を通し、ついでながら申せば、中学2年以後、俳句と落語に凝って、鏡花と万太郎を愛読し、3年になってからは正岡子規」にはまり、空襲の最中も「逃げ回る明け暮れでは、もっぱら子規を愛読し」ていた。
前出の引用に続く箇所で、野坂昭如は自身の読書遍歴をこのように振り返っている。「まあ普通程度に読書好き」と予防線を張りつつも、全集タイトルや作家名、版元名が羅列されるこのわずかな語りに充溢するのは、野坂青年の教養主義的なとしか形容しえない、読書への固執である。
そんな希望に満ちた青年の自意識が、その直後に大きな変化を迎えることを、本人は予想しえたのだろうか。のちに織田作之助や坂口安吾ら無頼派の「ヒロポン文学」へと傾倒し、みずから「焼跡闇市逃亡派」を名乗ることとなった野坂だが、その未来を予感させるかのように旧制高校受験は失敗に終わった。「高校にあっさり振られてしまい、大阪の中学校を退めて」東京に上京した1947年10月、野坂が東京駅ではじめて手にしたものこそ、例のカストリ雑誌だった。
受験の挫折を機に、「大阪で、街娼たちとのつきあいもあった」こと、「性的な知識も、漠然としたものでなく、もう少しはっきりイメージを伴ったところに進んでいた」こと。そして受験勉強という「今までの生活を断ち切る」べく上京した野坂青年にとって、「カーバイトの臭いの漂う夜店に売られるカストリ雑誌が、自分自身に対して、いたく身近なものにみえた」のだった。「カストリ雑誌」は野坂にとって「無縁のもの」から、立身出世への道を断たれたという挫折経験を代弁する、「いたく身近なもの」へと、その位相を変えたのである。
ただし、ここで注意しなくてはならないのは、その種類である。野坂が精神的に共鳴したものとは、「『りべらる』とか『猟奇』といった結構なものでな」く、あくまでも「カストリ雑誌のゾッキ本みたいな代物」、「お粗末」なカストリ雑誌だった。なぜ野坂は、あえて「結構なもの」ではないことを強調し当時の心境を、「お粗末」なもの(=挫折のメディア)に重ね合わせたのだろうか。
その疑問を解くヒントが、戦後の性風俗雑誌『人間探求 別冊号』(1952年5月)に掲載されたエッセー、「カストリ雑誌興亡史」にある。
(続きは本書で……)
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