【試し読み】『プロジェッティスタの控えめな創造力』
2024年10月刊行の『プロジェッティスタの控えめな創造力』は、物に溢れた現代社会において、むしろ物との関係を断ち切ろうとするデザイナーや建築家に警鐘を鳴らす1冊です。自らの手を使い、物をつぶさに観察することでこそ、人間は創造力を回復できる──。そんなメッセージが込められた同書の著者・多木陽介さんによる「まえがき」を公開します。ぜひご一読ください。
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まえがき
環境問題や民主主義の底なしの衰退、各地での戦争とともに、人工知能が話題にのぼらない日はない昨今だが、本書はむしろ、人間自身の創造力の現状を正確に見極めようという思いから書かれている。そして、ここで言う「創造力」とは、「知性」と言い換えても良いもので、芸術家や科学者らだけに備わった特殊な能力ではない。それは、家の片づけや料理に始まり、どんな人の日常のあらゆる行為の中にも生きている。問題を見出し、計画性をもって、あるいは即興的に、それを解決していく、人間性も含めた生存のための知性全般と言えるだろう。またそれは、個人差を超えて、地域により、時代により、つまり歴史とともに大きく変動してきた。そんな歴史の中で、我々の創造力は、今、どんな地点に辿り着いているのだろうか。ただ、本書では、直接現代の話をするのではなく、第2次世界大戦後に花開いたイタリアンデザインの基礎を作った何人かの巨匠たちの創造力を分析対象にしている。その理由は、彼らの創造力のあり方に、現代社会が最も必要とするモデルが読みとれるのと同時に、彼らの創造力との比較を通して自分たちの創造力の現状を考え直す良い機会になると考えるからである。
ひたすら進歩を称揚し、人間よりも機械を称賛したモダニズムの主流とは違って、イタリアンデザインの基礎を作った人たちは、とても人間思いで、物や物質と親しく付き合い、歴史や過去との繫がりも大事にしながら生き、創造することを基本にしていた。つまり、ごく自然で人間らしい生き方、創造力のあり方を否定することなく、そのまま研ぎ澄ませていたと言える。モダンな特徴は、その研ぎ澄まし方にこそ見られるものの、彼らの思考は、野生にも通ずる人間本来の知性をしっかりとその内部に残していた。
第2次世界大戦後すぐの荒廃し、貧しかったイタリアに登場した彼らは、資本主義的、消費主義的な価値観と態度にまだそこまで汚染されていなかったこともあり、その知性/創造力は、現代人のそれよりは、むしろ前近代人、例えばダニエル・デフォーの描いたロビンソン・クルーソーのそれにずっと近かった。それが証拠に、イタリアンデザインの父祖たちは、よく好んで学生たちに『ロビンソン・クルーソー』(1719年)を読むことを勧めていた。同書は、生存能力としての創造力についての最も基本的な作品である。無人島に流れ着いたロビンソン・クルーソーは、消費社会に住み、何でも購入して済ます我々とは反対に、自分の手で火をおこし、あらゆる生活必需品を作り、それを使って狩猟をし、穀物を栽培し、パンまで焼く。デフォーの言葉から立ち上がってくるのは、周囲の環境を最も優れた形で活かしながら、人間に本来備わる創造力を最高度に駆使して生き抜く、尊厳ある人間の姿である。そのようなクルーソーとの比較を通して、現代を生きる我々の創造力を評価しようとする時、一つ明らかなことは、日々進化するテクノロジーに従来人間がやっていたこと、考えていたことをどんどん任せるようになることで、現代においては、人間自身が創造力を発揮する領域が著しく狭まっているということだ。とくに都市部では、火をおこすことや狩猟、耕作はもちろん、物を作ったり、修理することも、そして下手すると料理さえしない人も増えている。人間はホモ・ファーベル(Homo Faber、作る人)であることを放棄しつつあるのだ。否、すでに多くの人たちは、もはやそうあることが人間らしさだと考えることすら忘れている。
一方、イタリアンデザインの基礎を作った巨匠たちの創造力には、さまざまな点で未開の世界の人たちの創造力に近い部分すらあった。第6章で彼らのブリコラージュ的な手法に触れるが、それだけではない。彼らの創造力は、発展する資本主義とモダニズムの只中にありながら、未だにしっかりと野生の根っこを持ち続けていたのだ。その根っこの一つに関わる部分について、アマゾンの森を研究して23年、現地に住むようになって10年というイタリアの生物学者、環境運動家であるエマヌエラ・エヴァンジェリスタ(註1)が、あるインタビュー(註2)で、とても興味深い話をしていたので紹介したい。要約すると以下のようになる。
ここで見えてくる「結果」を急ぐか、「行程」を大事にするかという違いは、二つの文明に生きる人間の思考と創造力のパラダイムの決定的な差異を表わしている。資本主義の圧力の下、技術思考の合理性に沿って、短時間で効率良く答えを出すことがつねに求められる我々の現代文明においては、創造の過程でなされる経験、交わされる人間的な触れ合い、倫理的な判断、そこで学ばれる内容などの意義が意味を持たなくなっている。初めから到達するべきゴールがあって、そこに正確かつ迅速に到達することばかり考えていたら、刻一刻の観察と思考の連鎖、問いを重ねることで思いがけずに見出される発見なども、大半は見落としてしまうだろう。そういう創造行為においては、そのプロセス自体が、結果を出す以上に意味も価値もなくただ経過する時間(註3)と見做されるようになっている。「届く」時間だけは問われるが、自然との触れ合いも希薄になった現代人の多くは、何かが刻一刻、正しく「育ち」、美しく「熟していく」時間の質に対する感受性を完全に失っているのだ。そして、この創造プロセスのクオリティ(特性、質)に対する無知、無関心は、現代社会の多様な側面において危機的な状況を招く要因になるとともに、人類自身の創造力の衰退を物語る深刻な徴候でもある。
一方、イタリアンデザインの源流にあった創造力は、現代人が思っているデザインよりもはるかにこのアマゾンの森の住人たちのそれに近いものを備えていた。ゆっくりと歩き、時には後戻りも辞さず、その過程で「知ること」を大事にする創造力を持っていたのだ。
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だが、この本は、イタリアンデザインを過去の歴史的事象として扱うモノグラフィーではない。筆者は20年以上前に偶然、その世代の巨匠の一人アキッレ・カスティリオーニのスタジオと関わることがあり(註4)、それがきっかけで2007年には彼についての書籍(註5)を上梓したが、書きながら一番感銘を受けたのは、カスティリオーニの創造力が現代のデザイナーの誰よりも現代社会の求めるエコロジカルでサステイナブルな思考を備えていたことだった。エコロジーとは素材や技術以上に思考の問題だとその時に教えられた。同書では、そのことが十分に伝えられなかったが、その本のさらに先に行くことを目的として研究を再開した時に、二つの発見をした。
一つは、この創造思考の特徴が彼だけのものではなく、第2次世界大戦後にイタリアンデザインの基礎を作った世代のデザイナーや建築家に共有されるものであったこと。もう一つは、彼らの非資本主義的とも言える思想と方法論が、20世紀後半の消費主義社会の中で一旦姿を消しながら、今世紀に入ろうとする頃から、デザインよりもほかの多様な分野に登場した、新しい職能の持ち主たちとともに戻ってきていることだった。分野も職能も異なるが、カスティリオーニたちとそっくりな姿勢で世界に対峙する人たちを通して、アキッレたちが戦後に育んだ創造思考が、まさに現代世界に必要とされる創造力として蘇っているのだ。
この本は、こうした二つの発見を出発点として、実際にカスティリオーニのスタジオのような場所に通い、当時の経験を持つ人々から話を聞き、彼らの導きのもとで物や仕組みを自分で発見する個人的な体験、そして、それを多くの友人たちと共有する社会的な経験を通して育まれてきた。そうした多くの人々のおかげで形にできたこの本は、まだ人類が忘れきっていないある創造力についてのささやかな覚書である。
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註
(註1) Emanuela Evangelista, Amazzonia: una vita nel cuore della foresta, Laterza, 2023.〔アマゾン―森の奥の一つの生〕という書籍の著者でもある。
(註2)Alla scoperta del ramo d’oro, RAI Cultura.(2023年11月7日放映)
(註3)この不毛な無意味さは、マルク・オジェの言う「非―場所」(高速道路、トランジットルーム、現代的なホテルの部屋など、場所としての意味も豊かさもない、ただ通過するだけの空間)に、またそれが「評価されない」という意味では、イヴァン・イリイチの言う「シャドウ・ワーク」(専業主婦の家事など、賃労働者の生活基盤の維持に必要不可欠なものだが、一切報酬の対象にはならないもの)に比較しうるものと言えるだろう。
(註4) 病床のアキッレ・カスティリオーニがもう仕事に戻れる可能性がないとわかった時点で、娘のモニカ・カスティリオーニから、当時写真やビデオの作品制作をしていた筆者に、スタジオと100点近い展覧会の模型をビデオで記録するよう依頼があった。
(註5)多木陽介『アキッレ・カスティリオーニ──自由の探求としてのデザイン』(アクシス、2007年)
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