「語る人」鈴木孝夫先生を悼む
本年2月、鈴木孝夫先生(言語社会学者、慶應義塾大学名誉教授)がお亡くなりになった。94歳というお年だったので、大往生と言ってよいと思うが、この人は不死身なのではと思っていた何人かのお一人であったので、いささか驚かされた。
1980年代の(文系)大学受験生にとって、「鈴木孝夫」の名前は轟いていた。『ことばと文化』が毎年、各大学の現代文のどこかに出題され、必読文献に数えられていたからだ。皆、この岩波新書は持っていたように思うが、きちんと読んでいたかどうかは定かではない。ただ、その名前は誰もが知っていたと思う。
そのようなわけで慶應に入った時、名前を知っている数少ない教授だったが、所属が文学部ではなく、「言語文化研究所」なるところだとは入って初めて知った。
在学中は残念なことにその講義を拝聴することはなかったのだが、慶應義塾大学出版会に入り、大学の機関誌を担当するようになり、鈴木先生と接する機会を持つようになった。最初に接した際のことは忘れてしまったが、ある時、どこからともなく「鈴木先生は座談会に出してはいけないよ」との声が聞こえてきた。なぜなら、全部ひとりで喋ってしまうから、と。
一番長い原稿のやり取りは、三田演説会の原稿の掲載の時であったと思う(『三田評論』2012年4月号「日本の対外言語戦略について――言語力こそ武力なき日本を守る「武器」だ」)。通常の講師は持ち時間1時間30分で、質疑応答に備えて約1時間15分。そこを鈴木先生はたっぷり2時間話し、文字起こし原稿にすると、平均的な講師の2倍以上。これを半分にして収めるために、かなり激しくやり取りをしたことを思い出す。内容の詳細は省くが、言語学の国際学会に、鳥の囀りについての論文を提出して一堂を困惑させたというエピソードは、鈴木先生の世界観を象徴しているようで、印象に残っている。
慶應義塾大学出版会からは後述する「音声CD」の他に、「鈴木孝夫」の出版物はないように思われるだろうが、実は隠れた傑作と言うべき文章ならぬ「語り」が収録されたものがある。自分は担当者でもなく、その場に立ち会ってもいないが、『井筒俊彦とイスラーム――回想と書評』(坂本勉、松原秀一編、2012年)所収の松原秀一先生(鈴木先生より7年も前に亡くなってしまった)によるインタビュー「井筒俊彦の本質直観」である。
ご逝去直後に読み返したが、およそ、学者のインタビューでこれほど面白い(興味深いという意味でも、抱腹絶倒と言う意味でも)ものはないと思った。
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鈴木先生が、井筒俊彦の弟子となり、後に、カナダ・マッギル大学で「自ら破門」されるというエピソードはいろいろなところで言われていて、かなり有名だが、本インタビューの中では、井筒俊彦とのかかわりあいを中心に、1950年~70年代の慶應文学部、言語文化研究所にとどまらない三田の雰囲気を、鈴木先生特有の語り口で、これ以上ないくらい生き生きと伝えてくれている。慶應義塾史にとっても貴重なエピソードに満ちているのだ。
どこを取っても面白いので、引用が逆に難しいのだが、例えば、井筒邸に住み込んで、その天才に指導を受けていた頃のことはこんな具合……。
松原 それに耐えたわけだな、その教育に(笑)。
鈴木 そう。だから、「井筒バス」は無料で快適だけど、「降りたい」と言っても絶対にスピードを緩めない。それで飛び降りた人は……。
松原 足をくじくわけね(笑)。
鈴木 それどころか、運の悪い人は首を折るわけ。だから、「井筒バス」の周りは死屍累々ということになる。これは西脇(順三郎)先生もそうなんです。厨川(文夫)先生もそうなんです。
鈴木先生は続けて、自分も、西脇、井筒と同じ、弟子をダメにするタイプで、だから弟子は一切取らなかったと言われているが、このような「規格外」の人々が跋扈?していた時代もなかなか大変だったろうと思いつつ、この痛快な時代の魅力には憧れの気持ちも抑えきれない。
井筒、西脇両先生の天才ぶりについてのエピソードは、ご本人からも直接電話で聞いたことがあるが、井筒俊彦と自分との決定的な「違い」に気づき、その引力〈魔力〉から必死の決断で逃れ、自己の学問を確立していく過程は往時の学問承継のすさまじさを感じさせるにあまりある。それを、あくまでユーモアたっぷりの鈴木節で語りつくすところに本書の真骨頂がある。誰が相手でも言いたいことは全部言う人であったと思うが、それでも盟友であった松原先生との対談ということもこの名調子ぶりの大きな理由だろう。
もう一つだけ引用すると、師・井筒と自らの違いを説明するこの箇所は実に興味深い。
鈴木 ああはなりたくない。だって、百花繚乱、この面白い表層、チョムスキー的に言うとsurface、それが面白いんでね。deep structureなんて言って深くて暗い所で、これとこれが同じだという、そんなものが分かったって、どうということない。
井筒俊彦のあらゆる言語・文化の世界に対して「決まった狙いどころを見つける能力」を類稀なものと認めつつも、「ああはなりたくない」と言うところが鈴木先生の本質なのだろうと思う。
自分が唯一、慶應義塾大学出版会の刊行物として携わったものが、音声CD慶應義塾の名講義・名講演『鈴木孝夫 世界の中の日本と日本語』である。文字テキストですらなかったわけだが、これも「語る人」であった鈴木先生とのご縁ということであれば、何か納得がいく。
このCDは1998年にSFC(湘南藤沢キャンパス)で行われた「言語と伝達」の講義を収録したもので、解説をSFC草創期の外国語教育スタッフの中心であった井上輝夫先生(この先生も、鈴木先生より6年も前に亡くなってしまった)にお願いしている。井上先生が書くように、SFC開設時の「外国語教育(SFCでは自然言語と呼んだ)については、討論の最初から鈴木孝夫のコンセプトがリードしていった」のであった。
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CDを出版することが決まって鈴木先生にご連絡して納得していただいて、しばらくしてから電話がかかってきた。「録り直したいところがある」。
もう鈴木先生との仕事は終わったと思っていたので、いささか驚いたが、その録り直し希望の箇所を聞くと、何か大きな間違いを言っていたとか、名前を間違えたということでもなく、普通の人間から見れば、些細なことに思えるところだった。あの早口を上手くつなぐことができるのだろうか、という不安を抱え、小型録音機を持ってお宅に伺い、何とか収録できた。
このように、一見豪放に見えながら、非常に真面目で細かいところを蔑ろにしない方でもあった、とあらためて思い出している。
訃報を聞いて、思ったことは、このような先生はもう現れないだろうな、ということだった。これは月並みな思いであると言えばそうなのだが、「このような」というのはどのようなことなのか、なかなか言葉にするのは難しい。
あらためてご冥福をお祈り申し上げます。
(文:出版部 及川健治)
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