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【試し読み】『ヨコとタテの建築論』第2弾!

建築分野を中心に好評を博している2023年1月新刊『ヨコとタテの建築論』。本書は私たちの社会のなかで建築を成り立たせている事柄をじっくりと見つめ、考え直した講義形式の入門書です。より深く、より広く読み解くための分野横断的な文献案内も充実。初学者から専門外の読者まで、幅広い層に読んでいただける一冊です。

note公開第2弾となる今回は、第7講「饒舌と沈黙──喧騒のなかのサイレンス」より、第1節「19世紀ジャングル──社会の誕生」を取り上げます。近代社会のとば口に立たされた建築家はいかに活路を見出していったか……ぜひご覧いただければ幸いです。

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19世紀ジャングル―社会の誕生

 ヨーロッパの19世紀はとても激しい時代でした。建築家にとっては、自身の戦場がみるみる変貌していく劇的な変化の時代。言ってみれば何百年も美しく手入れされてきた、静かな庭園が、みるみるうちに野生の森に呑み込まれ、深く喧しい獣たちのジャングルへと様変わりしてしまうようなものだったと思います。ジャングルのでき方やあり方は真面目に歴史を辿るならもちろん国や地域によっていろいろですが、ヨーロッパの文脈を中心に要点をざっくりつかむとしたら、およそ以下のようにスケッチできるのではないかと思います。

(1)伝統なき主役の登場

 第1の要点は、〈伝統なき主役の登場〉です。かつて建築家にカタチを求めていたのは誰でしたか? そう、世俗的な権力と宗教的な権力でした。王や貴族が前者、教会が後者ですね。そうした権力の理想にカタチを与えるのが建築だったのです。ところが社会の革命と産業の革命が進む中で彼らの権力が否定され、新たに表舞台に躍り出た資本家や中流層が自分たちにふさわしいカタチを欲するようになる。また労働者など庶民層も、公共政策の回路を通して何らかのカタチを要求する層になりました。
 ところが、彼らは今はじめて自分に「ふさわしい」意匠なんて修辞学的な問題を考え始めた人々です。「ふさわしさ」は多分に前例の蓄積を踏まえて、つまり伝統に即して判断されてきました。では、この伝統なき新しい主役たちにはいったいどんなカタチが「ふさわしい」のか。これは建築家たちにとって難問でした。

(2)アトム化した人々の流動性(モビリティ)

 第2に彼らがかつてなく流動的であったこと。19世紀のヨーロッパでは村落や都市、教会、商職人組合、大家族などのさまざまな伝統的共同体が壊れ、その縛りから解き放たれたバラバラの個人が、地理的空間と社会的関係の中を移動していきます。これが〈アトム化〉です。アトムはもちろん原子。分子結合がほどけてしまった、ということですね。
 一人ひとりの人生を考えてみてください。あなたがもし200年前の農村に生まれていたら、14〜15歳で一人前とみなされ、イエの労働者の一員となり、子どもを10人ほどもつくって農民として死んだでしょう。でも現代に生まれたあなたは経済力が許す範囲では自由です。20代半ばまでひとり立ちを先送りしてもらい、そのあいだに都市へ出て高等教育を受ける。ムラのナリワイでは生きていけないからイエは継げない。多少の後ろめたさはあっても自分が望む仕事を見つけ、自分と同様に自由な赤の他人と親密な家族をつくる。全部が本人の意志で決まるほど世の中甘くはないけど、この道のりをあらかじめ決めておく脚本とかムラやマチの規範みたいなものがほとんどないのも事実です。
 こうしてアトムたちはいかにも勝手気ままに、素早く、ランダムに動きまわりそうなのですが、しかし不思議なことに、意外にも全体はただのカオスになるわけではありません。なぜそうなのか。どんなメカニズムが全体を調整するのか。これを切実な問題と捉えた人々が19世紀後半に始めたのが「社会学 sociology」。伝統的な共同体とは異質なこの謎めいたうごめきを指す言葉が「社会 society」。19世紀が「社会の誕生」の世紀だと言われるのはこういった意味においてです。この「社会」を、19世紀以降の建築家は相手にしなければなりません。

(3)ティシューからオルガンへ

 アトム化した人々が自由に動いているようでカオスにならないのは、ひとつには社会がアトムたちを集めたり流したりするさまざまな仕組みをつくり出すからです。議会、官庁、各種の学校、各種の病院、刑務所、美術館と博物館、図書館、温室、鉄道と駅、公園、あるいは工場やオフィス、百貨店、映画館、遊園地、それに労働者住宅、職業安定所なんてのもそうです。それぞれが、それを運営する者、使役される者、利用する者からなる「小社会」であって、それぞれのS(広義の制度)に対応するF(物的な施設)を持っている。第4講でお話した「組織」の3段階を思い出してください。もし都市を生き物の身体(コルプス)に喩えるなら、ここに列挙した機関=小社会は、さしずめ心臓・肺などの器官(オルガン)ですね。
 かつては支配層も庶民層も、住まいがすなわち働く場所だったことは皆さんご存じでしょう。都市の人々は身分別の地区に暮らしていて、それぞれに建物類型と都市組織が違った。それが集まったものが都市だった。伝統的な都市の各部分を、組織(ティシュー)という見方で理解することができるのはそのためです。ヨコに広がる類型=組織の海からタテに突出するのは宮殿や教会などごくひと握りの建物にすぎず、それをつくるのが建築家の仕事だったのですね。
 対して、新しい都市はその複雑な働きの一部を専門的に担う小社会を次々に生み出し、それらによって自身を駆動させるようなあり方をしています。住宅だって、人が朝出ていって夜帰り、栄養と睡眠を取り繁殖を行う器官になります。それ以外の機能は別の器官にゆだねる。これが近代住居だということは皆さんもご存知でしょう。
 要するに〈ティシューからオルガンへ〉です。ティシュー型都市が、オルガン型都市に変貌する。こんな用語はありませんが、悪くない造語かなと思います。近現代の建築家は、つまり多種多様なオルガンに「ふさわしい」カタチを与える、オルガン型都市の造形者なのですね。逆に現代の可能性はオルガンから新しいティシューへ、ということになると私は思います。

(4)公/私を編成する大転換

 19世紀は古い権力に従属していた人々が自由な「私」になる時代です。では反対に、かつての栄光を失った王侯貴族や宗教(日本では武家や社寺)はどうなると思いますか? そう、あなたと同じ「私」になるのです。こうして現れたすべての「私」とその財産を等しくカヴァーする新しい「公」の概念が再定義されます。これが近代の〈公/私〉です。「パブリック」の概念は、皆さんが想像するよりうんと過激なのです。
 「公」は、都市という巨体の隅々に血がいきわたるように古い組織(ティシュー)を切り裂いて大動脈を通し、血管網を系統化していきます。公共施設としての道路や橋梁ですね。国や私企業などが敷設する鉄道もこれに準じます。また旧権力がその特権により蓄積した土地を没収し、それも活用しながら学校、博物館、公園などの公共施設を整備します。これらが公共のオルガンですね。これらを広い意味で社会のインフラと呼べますが、インフラがインフラであるための条件は、すべての「私」が接続・利用できること。
 「公」はまた、一切の「私」を漏れなく登録する台帳をつくり、彼らが「社会」の一員であるために必要な、皆に共通の知識や論理、自由や責任を彼らに教え込みます。学校や監獄はそのためにつくられた施設の代表です。
 すべての「私」が等しく使えるインフラと、すべての「私」に等しく適用される制度が整えられてはじめて、個人も組織も効率よく活動でき、公正に競争しながら幸福を享受できる。そういった理念が、この公/私の編成には分かちがたく結びついています。

(5)規模と速度を担う産業

 都市の規模はかつてとは比べものにならないほど大きく膨らみます。18世紀半ばなら、世界の100万都市を数えるのに片手で足りました。ヨーロッパには50万都市すらなかった。ところが20世紀を迎えたとき、ロンドンの人口はなんと600万を超えていました。急拡大する「社会」は、こちらで中世以来の街を壊し、あちらでは新しいオフィスや工場や労働者住宅をつくり、みるみるうちに変化していく。その尋常でない量と速度を担うのが、新しいテクノロジーであり、それは産業というカタチをとってオルガンを生産します。
 技術の変貌は建物のカタチも変えます。鉄筋コンクリートの庁舎、鉄とガラスの駅舎やオフィスビルなんてのはそのわかりやすい例でしょう。膨大な数の石や煉瓦を積み上げて壁をつくる古い建物に比べ、こうした新しいテクノロジーはとにかく速い。工場で組んでおいたトラス梁ふたつを現場に運び込み、両端と頂点を固定すればあっという間に巨大なひとつのアーチができ、幅数十メートルもの空間を覆えるわけですし、鉄骨を現場で次々にリベット接合していけば高さ100メートルを超えるようなオフィスビルもみるみる組み上がる。竣工の遅れはそのまま経済的な損失ですから、速度は今やきわめて重要な指標であり価値です。建築家や建設会社もいつも大量の仕事を抱え、どの依頼主からも急かされている。
 とはいえ、建物は概して比較的ローテクです。発電所や飛行機などと比べればわかるとおり、本当に先端的なテクノロジーの出番は多くない。野心的な建築家たちが考えたのはむしろ、近代テクノロジーの性格(S)にふさわしい表現(F)、という問題です。お気づきですよね、「機械時代のデザイン」とはやはり多分に修辞学的な問題なのです。そのマニフェストを最初に鮮烈に打ち出したミラノの未来派には次回の第8講で登場してもらうつもりです。
 もうひとつ、これに関連して少しだけお話しておきたいのは、テクノロジーへの恐怖やニヒリズムです。急速な変化への不安と嫌悪。代わって称賛、推奨されるのは、人間らしいスケール、手仕事、温かみの感じられる素材感、囲われ守られた感じのする広場などです。しかし人間らしいって何でしょう。第1講で話したモダン・ヒューマンの本性を思い出しましょう。「人間性」には「累進と互換」の両面があったのですね。そのうち互換性、つまり人間関係の調和や、人工と自然の調和を取り戻そうとするのは人間性のひとつの側面にすぎません。そして、そうした論調がヒューマンなスケールや手仕事や広場を強調するのもまた、濃厚に修辞学の問題です。つまりそれが本当に失われた決定的な何かを取り戻せるわけではないことには注意しておきましょう。

(6)深層/表層の分離

 速度の価値、テクノロジーの変貌と産業化。これらは建物のつくり方、ひいては設計の仕方を変えます。その典型的な現れのひとつが建物の生産を部分に分けること。すべてを工場生産の部品にしてしまい、現場に運んで組み立てる、というようなやり方はもっと先の話ですが、19世紀後半のヨーロッパやアメリカではもう建物を構造躯体と表皮とに分ける考え方は一般的になっています。
 躯体には鉄やコンクリートを使うことも増え、その外にセメントやテラコッタでできた歴史様式の細部などの装飾部品や外装パネルを取り付ける。こうすれば工期が短くなるだけでなく、躯体を変えずに意匠の選択肢をいろいろ提示できます。こうして交換可能な「表層」という捉え方が一般化するとともに、変わらない躯体が「深層」とみなされる。この〈深層/表層の分離〉という事態が進む中で、内容(S)にふさわしい様式(F)という命題は、着せ替え人形の衣装みたいなものになっていきました。
 どうですか。こうなると建築の意匠は何だか気軽で自由になったようでもあり、同時に表層だけの問題に閉じ込められて窮屈になったようでもありますね。「様式」という概念も新しいものですが、それはかつての建築に用いられるときは建物の全体性、つまりその時代の価値観の中で、生活や儀礼、構造形式や施工技術、意匠と象徴性といったすべてを統合した建築のトータルな特質を指します。ところが19世紀の設計実践では、表層だけを指すのです。これはきわめて異様な事態であったと考えなくてはなりません。
(続きは本書にて)

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試し読みの第1弾として、第1講「互換と累進──モダン・ヒューマン、その力のぎこちなさ」より、第1節「アナロジーの曲芸」、第2節「自他に橋をかける」を公開しています。こちらもご覧いただければ幸いです。

【著者プロフィール】
青井 哲人(あおい・あきひと)

明治大学理工学部建築学科教授、建築史・建築論
1970年生まれ。1995年京都大学大学院工学研究科建築学専攻博士課程中退。神戸芸術工科大学助手、人間環境大学准教授を経て、2008年明治大学理工学部建築学科准教授、2017年同教授。博士(工学)。主著に『彰化一九〇六年──市区改正が都市を動かす』(アセテート)、『植民地神社と帝国日本』(吉川弘文館)、『世界建築史15講』(共著、彰国社)『津波のあいだ、生きられた村』(共著、鹿島出版会)、『日本都市史・建築史事典』(共著、丸善)など。

【目次】
第1部 ヨコとタテ──ヒトは世界を組み上げる(モダン・ヒューマン論)
●第1講 互換と累進──モダン・ヒューマン、その力のぎこちなさ
●第2講 形態と内容──地上の幻
●第3講 相対と絶対──数と幾何学の魔法

第2部 ヨコにひろがる沃野──ありふれて、美しい(ビルト・ティシュー論)
●第4講 類型と組織──都市という織物の単位と積層
●第5講 自然と人工──なること/つくることは不思議な関係
●第6講 平衡と進化──わたしたちは想念のなかで都市建築を分解する

第3部 タテはいかに可能か──バラバラな世界に(アーキテクト論)
●第7講 饒舌と沈黙──喧騒のなかのサイレンス
●第8講 過去と未来──世界が壊れ、組み変わっていくとき
●第9講 単純と複雑──多元的な世界をそのままに

むすびに
●第10講 能動と受動──建設設計の3つの社会性

●抜き書きノート

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