連載第11回:『結婚の哲学史』第3章 第1節後半 アンデルセン、レギーネの本心
結婚に賛成か反対か、性急に結論を下す前に、愛・ 性・家族の可能なさまざまなかたちを考える必要があるのではないか。昨今、結婚をめぐってさまざまな問題が生じ、多様な議論が展開されている現状について、哲学は何を語りうるのか――
九州産業大学で哲学を教える藤田先生による論考。前回に引き続きキェルケゴールです。彼の生きた時代と、その恋人の実像に迫ります。
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前回はキェルケゴールへの導入として、「キェルケゴールとシューマン」という主題を取り上げることで、多少なりともありきたりでない仕方で「キェルケゴールの生涯」について接近することを試みたつもりである。今回は、デンマークの国民的作家を引き合いに出しつつ多少なりとも平凡でない仕方で「キェルケゴールの生きた時代」について触れ、最後にキェルケゴールの「永遠の恋人」レギーネについて最新の伝記を基に、可能な限り彼女の実像に迫ってみたい。
2.単独者の眼差し――キェルケゴールとアンデルセン
セーレン・キェルケゴール(Søren Kierkegaard, 1813-1855)は、19世紀前半の北欧デンマークに生きた思想家である。当時のデンマークは政治的混迷状態にあった。1800年頃、イギリスと戦争状態に入ったデンマークはナポレオンと連合するも敗北し、1813年には破産。1814年に属領ノルウェーをスウェーデンに(キェルケゴールの死後ではあるが、1864年には肥沃なシュレスウィヒ・ホルスタイン二州をプロイセンに)割譲し、一小国に転落しつつあった。だが、それゆえの文化的黄金時代Guldalderen(グルダルデレン)=Golden Ageが生じてもいた。文化面でもドイツの影響を強く受けることになったのだが、しかしまさにそれゆえに国民文化運動が高揚したのである。ちょうどその数年前に、フランスに敗れたドイツの諸領邦国家においてナショナリズムが鼓吹され、フィヒテの連続講演『ドイツ国民に告ぐ』(1808年)が一書をなし、『グリム童話』が成立する契機となったのと同様の事態であった。
このデンマークの文化的な黄金時代を代表する、世界的に有名な文化人を一人だけ選ぶとすれば、それはおそらくキェルケゴールではなく、グリムと双璧をなす童話作家ハンス・クリスチャン・アンデルセン(Hans Christian Andersen, 1805-1875)であろう。アンデルセンの名前は知らなくても、「人魚姫」「親指姫」「裸の王様」「みにくいアヒルの子」「マッチ売りの少女」「雪の女王」などの物語なら知っているという人は少なくあるまい。デンマーク文学研究者の奥山裕介によれば、デンマークの文化的特殊性を称揚する同時代の風潮の中で、早くから「国民詩人」のひとりに祀り上げられていたアンデルセンだが、『人魚姫』のような声なきアウトサイダーの物語を生み出してきただけあって、同時代のナショナリズムの風にうまく乗りながらも、孤立を深め沈黙を余儀なくされるマイノリティの存在を気にかける一面もあったようである。この点は、グリム童話と大きく異なりアンデルセンの童話作品に創作が多い(民話に基づいて書かれたのは計156作品中わずか12作品)ということにも反映している。「マッチ売りの少女」が典型的だが、死ぬ以外に幸せになるすべを持たない貧困層への共感と、冷淡で無関心な社会に対する批判が根底にある。キェルケゴールもまた若くして有名になったが、デンマーク社会のマジョリティ(彼の場合はキリスト教界)と距離を保っていた。
そんな二人には意外な縁がある。キェルケゴールが書いた最初の著作は、アンデルセンについて書かれた世界最初の本だったのである。若き日の二人は同じ文学サークルのメンバーであった(『おどるでく』で芥川賞を受賞した室井光広は、この驚きから『キェルケゴールとアンデルセン』(講談社、2000年)において両者の邂逅を復元する文学的考古学を試みている)。キェルケゴールのアンデルセン論は、共感と友情に満ちた論評かと思いきや、最初から最後まで手厳しい批判である。なぜそんなことになったのかについては大谷愛人(1961)の詳細な解説に任せよう。私たちとしてはただ、1838年頃のデンマークの文学界はイロニーの支配した時代であり、その「イロニーの師」こそ、文壇の寵児にしてヘーゲル哲学のデンマークへの紹介者、そして二人の属するサークルの中心人物ハイベルクであったということだけ確認しておけば十分である(大谷 1961:78)。二人は絶えずどこかでヘーゲルの影を感じながら、師とそのサークルをめぐってそれぞれの流儀でイロニーの刃を振るってみせたということではないか。その次第を大谷はこうまとめている。
このキェルケゴールの処女作『今なお生ける者の手記より――筆者の意にそむいて、S・キェルケゴール刊行――小説家としてのアンデルセンについて――彼の最近作『しがない胡弓弾き』を絶えず顧みつつ』』のいかにも謎めいた題名のうち、特にサブタイトルの「筆者の意にそむいて、S・キェルケゴール刊行」という部分には、筆者キェルケゴールと刊行者キェルケゴールという形で、後の仮名作品や偽名作品に見られる自己分裂的な姿勢がすでに鮮明に表れているとは言えないだろうか。キェルケゴールが「審美的なもの」から出発するのは、自分もまた時代の子であることを深く自覚していたからである。だが他方で、「キェルケゴールKierkegaard」という名は、彼の祖先が「教会の農地」に住んでいたところから採られた姓だとしても、「教会Kirchの庭Garten」すなわち「墓地」を意味しうる。キェルケゴールのうちにはいつも内省と決断、憂愁と快活の大きな振幅がある。葛藤に悩む彼の生涯には二つの大きな事件が影を落としている。その結果、すべての運動は内へ、精神、単独者、人格性の内的宇宙へと向かうことになる。
3.レギーネの本心
本章でこれからキェルケゴールについて語っていくにあたって、他の章以上に彼の個人史が重要になる。とりわけレギーネが婚約破棄について、あるいはその後のキェルケゴールと自分の関係について何をどう感じていたのかを知ることは決定的な意味を持つ。この点で、一番年が近く仲の良かった姉コルネリアとレギーネが交わした百数通の書簡が近年発見されたことはきわめて重要であり、キェルケゴールに関する今までのところ最も浩瀚な伝記と言われている『SAK――ゼーレン・オービエ・キェルケゴール』(Garff 2005)を著したヨアキム・ガルフが、それらの書簡を基に執筆したレギーネに関する初の伝記は、ぜひとも紹介しておかねばならない重要な参考文献である。私たちが参考にしたのは2017年に刊行された英訳版で、そのタイトルはKierkegaard’s Muse: The Mystery of Regine Olsenつまり『キェルケゴールの女神――レギーネ・オルセンという謎』(Garff 2017)だが、2013年に刊行されたデンマーク語原書のタイトルは、Regines gåde: Historien om Kierkegaards forlovede og Schlegels hustru、つまり『レギーネの謎――キェルケゴールの婚約者にしてスレーゲルの妻の物語』である。(以降はガルフの記述に大幅に依拠していることをあらかじめお断りしておく。)
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まずスレーゲルとは何者であったのかを確認しておこう。時を戻して確認しておけば、キェルケゴールがボレデ・ラーダム(Bolette Rørdam)に強い思いを寄せていた頃、レギーネ・オルセンは彼女の家庭教師で折り目正しくハンサムなヨハン・フレゼリク・スレーゲル(通称フリッツ)に夢中になっており、フリッツも教え子の魅力に気づいていないわけではなかった。後にレギーネの気持ちがキェルケゴールのほうへ傾き始め、勇気を出してフリッツのことを話したとき、キェルケゴールはこう断言した。「あなたは終末の日までフリッツ・シュレーゲルの話をしていてもよかったけれど、それはまったく何の助けにもならなかったでしょう。なぜなら私があなたを望んだからです」。また別の機会には、こうも言ったという。「だからその関係はもう括弧に入れましょう。私には先立つ権利があるのだから」。フリッツは二人の関係を受け止め、仕事に没頭した。それなのに、突然の婚約破棄である。撤回を懇願していたレギーネもやがてフリッツと1843年8月28日に婚約し、1847年11月3日に結婚した。フリッツは税関商務局で見習いとして5年間働いた後、1847年には書記官長に任命され、翌年には改組され植民地局となった部局の長(Chef for Kolonialkontoret/head of the Colonial Office)となる。さらに1855年には当時植民地であったデンマーク領西インド諸島(現在のアメリカ領ヴァージン諸島)の総督となり、レギーネは彼とともに現地に赴くことになる。
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婚約破棄がなされて以来、キェルケゴールとレギーネは一言も言葉を交わさなかった。これをもってレギーネにとって婚約者との関係は終わり、彼女の人生の一つの章は閉じたと思われるかもしれない。だが事実はまさにそうではなかったのである。婚約破棄以後のキェルケゴールの日記を見ると、レギーネとの「逢瀬」がいかに頻繁であったかがわかる。
ただし、「逢瀬」とは言っても、互いに一言も交わさず、立ち止まりもしない。無言の二人が同じ道を逆方向から、音もなく互いのほうに向かってゆっくりと歩き、すれ違い、そしてそれぞれの方向に向かって振り返ることもなく去っていく。ただそれだけのことである。だが、たとえそれが無言のすれ違いだとしても、それがたまたま何か月も何年も続くだろうか。朝早く、決まってキェルケゴールの散歩道だと分かっている場所で? 例えば、1850年1月の日記で、キェルケゴールは彼女と1カ月以上にわたって「ほとんど毎日、あるいは少なくとも1日おきに2回は会っていた」と書いている(KJN 8, NB25:109)。あるいは、1852年5月の日記には「1851年の後半、彼女は毎日私に会っていた」という記述がある。
キェルケゴールの捏造だろうか。まったくの事実無根、あるいはほんの一、二度偶然すれちがったことを誇大妄想的に拡大解釈し、その「逢瀬」が永遠に繰り返されることを願いながら、こう書きつけていたのだろうか。あるいは、キェルケゴールがストーカー的に彼女に付きまとっていただけなのに、予定どおりに偶然に出会ってしまっただけなのに、彼が強引で独善的な解釈をしているにすぎないのだろうか。今となってはそれを否定する根拠も、肯定する根拠もない。ただ、この時期のキェルケゴールの記録は淡々とした、時にはほとんど生々しい報告の性格を持っている。ほとんど強迫的なまでに、出会った時刻・距離・道順の変化・風向き・天候などを克明に記録しており、それらの描写は、他の文脈ではどうしても入り込んでしまうフィクションの疑いを払拭するようなものである。
このような出会いがまったく偶然でないどころか、時間厳守と言えるほど正確であり、さらには恥ずかしがり屋の恋人たち自身にとっても、部外者にとっても、まるで注意をそらすかのように出会いの地点がずれていっており、それがあたかも二人の動向がシンクロした結果のようでさえあることに注目せずにはいられない。ある種の「無邪気な不実さ」(innocent infidelity)が時に儀式に近い厳格なルールに従って展開されている。セーレンとレギーネの二人は、不可解なほどに(enigmatically)お互いに結びついており、できることならまるで偶然に出会ったかのように見せながら、できるだけ頻繁に出会う口実と機会を見つけなければならなかったのだというガルフの推測は、上記のような記述を見ればそれほど外れてはいないように見える(Garff 2017:1)。
法に則って結婚した妻がほぼ毎日朝早くからきちんと盛装をして散歩に出かけていることをスレーゲルはどう思っていたのだろうか。そういった考えにはほとんど煩わされなかったように見受けられるキェルケゴールだが、他方で、彼女とのこの“ランデヴー”がまったく無邪気で偶然なものだと自分たち自身を言いくるめるにはあまりに無理があることには気づいていた。「だから、私は変化せねばならなかった」と彼は日誌に書いている。ほとんど新年の決心であるかのように、新年第一日目に彼は別の道を選んだ。散歩からの帰宅の道を変えることは、しばらくの間はうまく行ったように思われる。だが、また彼女と出会うようになる。
そして1855年3月17日土曜日、14年間の沈黙が破られる時がやってきた。スレーゲルが総督として西インド諸島に旅立つその日、レギーネは急いで家を飛び出し、昔の恋人に会える望みを抱きながら街の中を彷徨い歩いた。そして、人生がどうしようもなく結びついているこの二人に対する寛大な摂理の最後の仕草のように、つばの広い帽子をかぶった見覚えのある人物にレギーネの目が留まるのにそう時間はかからなかった。彼とすれ違うとき、彼女は息を切らしながら言った。「神の祝福があなたと共にありますように。すべてがうまくいくことを願っています!」(Encounters with Kierkegaard: A Life as Seen by His Contemporaries, collected, edited, and annotated by Bruce H. Kirmmse, tr. Bruce H. Kirmmse and Virginia R. Laursen. Princeton, NJ: Princeton University Press, 1996, p.42)。
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ここまではキェルケゴール側から見たレギーネであり、伝えられた逸話にすぎない。レギーネ自身はどう考えていたのか。彼女が姉と交わした書簡は、彼女が総督の妻として西インド諸島に赴いた1855年に始まり、コペンハーゲンに戻って来た後も1878年まで続いている。万が一にも書簡が誰かの手に渡るとも限らない。またフリッツは、自らの家族でもあるコルネリアに一言書き添えることを望んだ。決して覗き見るわけではないとしても、レギーネが書き記していることに一瞥は送ることになる。それらの可能性は、たとえ可能性にすぎないとしても、レギーネの書き記す内容に確実に影響を与えるだろう。それらの手紙にキェルケゴールが登場しないのはそのためなのだろうか。いずれにしても、それらの書簡は表面的には誰に読まれてもよい内容になっており、ガルフが実際に実行しているように、少し突っ込んだ解釈を施さねばならない。例えば、5年間の任期を終えて、スレーゲルが西インド諸島からデンマークへ帰還することになった時、レギーネは姉にこう書き送っている。
レギーネは、「その他いろいろなこと」が何であるかは語っていない。しかし、コペンハーゲンへの「昔のような愛情」(old love)がなくなったことが、コペンハーゲンに「昔好きだった人」(old love)がもういなくなったことと関係している可能性はある、というのがガルフの示唆である。
ガルフの解釈の是非はともかく、できるかぎり事実だけを追っていったとしても、ある程度のことは推測できると私は考えている。例えば、レギーネがコルネリアに送った手紙の中で「その物理的な薄さにもかかわらず、おそらくは最も重大なもの」「他の手紙が沈黙を保ったままの何かに触れているもの」(Garff 2017:113)は、ガルフによれば、1856年8月26日木曜日の手紙である。レギーネが旅立ったのが1855年3月、キェルケゴールが突如路上で倒れ亡くなったのが1855年11月、彼の書簡や日記が彼女の手元に送られてきたのが1856年5月である。当然8月のこの手紙は、それらを読んだうえで書かれている。だからこそ、そこには「コルネリアとの手紙のやり取りの中で最も心を開いた文章の幾つか」(Garff 2017:114)が綴られている。
最後の数行で手紙は突如として広がりを見せ、戸惑うほどに謎めいてはいるものの、レギーネの他の手紙では隠されていた言外の真意を表すかのようなものとなっている。レギーネはどんな力を恐れているのだろうか。もし彼女が理性に逆らって扉を大きく開けたら、彼女の心に何が起こるのだろうか。彼女はそれをフリッツに打ち明けただろうか。フリッツは、彼女の秘密の場所の扉の向こうにあるものについて、本当はどれほど知っていたのだろうか。その場所はキェルケゴールのためだけのものだったのだろうか。キェルケゴールの手紙や日記を読むことと、彼女のこのような悩みとの間には、何か関係があったのだろうか?
1855年11月にキェルケゴールが42歳で世を去った半年後、彼女がヘンリク・ルン――セーレンの姉(三女ペトレア)の夫――に宛てた手紙が何通か残されている。1856年レギーネ33歳の時の手紙である。婚約破棄を告げられたのが1841年8月だから、それから15年の時を経ている。ガルフによれば、コルネリア宛ての手紙に比べてこれらの手紙の調子が硬いのは、「未決着の感情を示す徴候 symptomatic of the unresolved feelings」であり、そこではほぼキェルケゴールについてしか語られていないにもかかわらず、彼の名前は一度として言及されていない(Garff 2017:102)。まずは5月12日の手紙の一節を見てみよう。
それから数か月を経た9月10日付の手紙では、キェルケゴールが死の床で自分の名を口にしたという話をヘンリク・ルンから聞いたレギーネがさらに踏み込んで自らの感情を吐露している。「彼が私について何を言ったのかということが、私が心から知りたいと思っているそのことに他なりません」という彼女は、知りたいと願う理由についてかなり長い叙述で説明している。第一の理由についてレギーネは、キェルケゴールの遺稿の中から得た知識によって彼ら自身の関係を「別の光」の下で実際に見ることができているのか定かでなく、それを確かめたいからだとしている。「別の光」を「私自身が実際時としてそれをその中で見た光、(…)私の謙虚さがその光の中でそれを見ることをたびたび私に禁じはしたが、しかし彼に対する揺るがぬ信頼がまたしても常に私をそこへ連れ戻してみるようにさせた(…)そのような光」と言い換えていることからも推察される通り、通常の恋愛関係として見るのとは異なる視点ということであろう。キェルケゴール「公認」の理由と言ってもいいだろう。これに対して第二の理由は、キェルケゴール「非公認」の理由と言ってもいいのではないか。「しかしこれに反して私が確かだと感ずることは、私たちのあいだには未決着の一点があるということです。それはいつかは明かされねばならなかったものですが、近視眼的な人間である私はそれを後年の静かな時期に延ばしました」(キェルケゴール 1973:229)。だが、彼は突然に逝ってしまった。レギーネはキェルケゴールに対して大きな不正を行なったかのような後悔の念に満たされてしまう。これが、彼の最後の言葉が何であったかを聞くことによって彼女が結論を出せたらと願う理由なのだという。何に対してどう答えを出すというのか。
レギーネは、自らがキェルケゴールによって神に捧げられたのだと書いている。後で『おそれとおののき』の読解で確認するように、彼女のこの認識は、キェルケゴールのそれと合致している。彼女が臆病さから怠った義務とは、彼と同様の人生を彼女も送るということではなかったか。レギーネの次の言葉は、ルソーの『新エロイーズ』の主人公ジュリを思わせるものだ。
キェルケゴールとレギーネの関係とは、いったいどのような関係なのだろうか。一方では、レギーネはキェルケゴールと長年言葉すらも交わさず、しかしある意味では(おそらくお互いにそうと知らずに)思いを通わせていた。それは以上で確認してきたとおりである。だが他方で、「幸福な結婚生活が人生の主要事であるということは、たびたび繰り返されたことですし、それにスレーゲルと私は互いに大変理解しているので、私たちはお互いを相互に富ませています」(キェルケゴール 1973:231)と語るレギーネは、裏表のある不実な人間なのか。二人の関係は“清い”ゆえにこそ、いっそう罪深いのか。キェルケゴールが死んでいるから問題はないのか。問題はそんな次元の話なのか。
「秘密の倫理」というものがある。これがキェルケゴールにおける結婚の脱構築の主題である。
次回:4月19日(金)更新予定
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