【試し読み】『マテリアル・ガールズ』
2024年9月刊行の『マテリアル・ガールズ』は、混迷をきわめるジェンダー問題を分析し、平等な社会のための現実的な解決策の提示を試みた1冊です。今回は日本語刊行に際して、翻訳をご担当頂きました大阪電気通信大学の中里見博先生による「訳者あとがき」を特別公開致します。ぜひご一読下さい。
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本書は、Kathleen Stock, Material Girls: Why Reality Matters for Feminism, Fleet, 2021の全訳である。著者のキャスリン・ストックは、2021年に辞職するまで、イギリスのサセックス大学で哲学担当の教授を務めていた。ストックの哲学者としてのキャリアは、美学やイマジネーションの研究から出発し、2001年にフィクション映画とイマジネーションをめぐる博士論文で名門リーズ大学から博士号(Ph.D.)を取得した後、2003年にサセックス大学に講師として着任した。2007年に編著『音楽をめぐる哲学者たち――経験・意味・作品』(オクスフォード大学出版局、未翻訳)、2017年に単著『オンリー・イマジン――フィクション・解釈・イマジネーション』(オクスフォード大学出版局、未翻訳)を出版している。
「ジェンダーアイデンティティ理論」(本書14頁参照)を批判する本書は、2021年5月に出版されるや、その確かな学識に裏打ちされた明晰な内容と真摯な筆致から多くの支持を集めると同時に、トランス活動家から「トランスフォビア」との激しい攻撃を受けることになった。ストックは、本書の元になる見解を発表し始めるまで、ジェンダー分野での研究業績はほとんどなかった(ほぼ唯一の例外は、「性的客体化」というフェミニズムの重要概念を分析した2015年の論文)。そんなストックが、セルIDに基づく性別変更を可能にするジェンダー承認法改正の動きが生じた2018年頃から、トランスジェンダーに関する自己の見解をブログで発信し始めた。
その結果トランス活動家から、「トランス差別者」として批判されるようになる。本書が出版されるや、ストックへの直接的な人身攻撃が始まった。ストックは身の安全を確保するため護衛をつけざるをえなくなるほどであった。しかし大学の組合がストックの権利や安全を守る側に回らずむしろ攻撃を擁護する側についたため、ストックは本書の出版からわずか5カ月後に辞職に追い込まれた。
本書はしかし、決して「トランスジェンダー差別本」などではない。トランスジェンダーをめぐる諸問題を冷静かつ学術的に論ずることを通じて、フェミニズムの分断・対立を乗り越えようとして書かれた、きわめて価値ある書物である。批判者が依拠する「差別の根拠」に対しては、学術的エビデンスと社会的事実に基づいて周到に論駁されている(生物学的性別の存在と重要性については第2章と第3章、セルフIDがもたらしうる社会的混乱と他者の権利侵害等についても第3章および第7章参照)。それでも、日本においても本書に対しては「トランス差別」との批判が巻き起こるだろう。
一つだけ確実に言えるのは、本書のように根拠と事実に基づく誠実な研究成果に対して「トランス差別」などの名誉毀損的レッテル貼り、「ノーディベート(差別者とは議論しない)や「キャンセル(排斥)」などがジェンダー研究の世界でも生じるとしたら(あるいは生じたときにそれを学界が黙認するとしたら)、それは学問研究としてのジェンダー研究の自己否定であり、自殺だということだ。本書の意義についてさらに詳しくは、千田有紀さんによる「解説」をご覧いただきたい。
ただし本書の興味深い仮説、第6章「フィクションへの没入」に対するありうる批判についてのみ一言述べておきたい。それは、同章の記述に基づき、本書が「トランスの人の性自認をフィクションへの没入と判定する」もので「越権行為」だとする批判である。だがこれは誤解である。ストックは「性自認」と「性別変更」を「分離可能」としたうえで、性別変更のみをフィクションと指摘しているからだ[本書214頁]。文字どおりの性別変更など医学的にできない以上この規定はむしろ当然だろう。そのうえで、性別変更を「真実だと信じている人」には「フィクションは関係ない」ことも認めている[215頁]。ストックの仮説は「限定」的[214頁]であることが見落とされてはならない。
ここで訳語について説明をしておきたい。まず本書のキーワードである「gender identity」は、今日その訳語として普及している「性自認」を採用せず、「ジェンダーアイデンティティ」とそのままカナ表記した。「自認」は、「identity」(通常「同一性」と訳される)の訳語よりも、「identify(自認する)」の名詞形「identication(自認すること=自認)」の訳語にふさわしい。よって「性自認」はgender identityではなく「gender selfidentiselfidentication(セルフID)」により適した訳語といえる。にもかかわらず、gender identityに「性自認」の訳語をあてるのは、日本におけるセルフIDへの道を均す効果を生じさせるおそれがある。
次に、「sex」と「gender」である。genderについては、幸いストック自身が第1章の終わりの方で(44頁以下)それに四つの意味があることを指摘し、読者の混乱を避けるため、異なる意味ごとに言い換えている。翻訳では、その言い換えをそのまま訳した。genderに対するsexは、「生物学上の性別」を意味する。ジェンダーアイデンティティ理論が生物学上の性別を否定ないし軽視するのに対して、本書はその存在を擁護し重視するがゆえに、文脈によっては(過度に読みにくくならないことを前提に)単に「性別」ではなく「生物学的性別」と訳した。
本書でもう一つ重要なのが、「女性」を意味する「female/woman」と「男性」を意味する「male/man」の自覚的な区別である。もともと「female」と「male」は、日本語の女性と男性と同じように、それぞれ「生物学的意味および社会的意味での女性」、「生物学的意味および社会的意味での男性」を意味し、「woman」と「man」はそれぞれ「社会的意味での女性」と「社会的意味での男性」を意味するところ、ストックは本書でfemaleとmaleをそれぞれもっぱら「生物学的意味での女性」と「生物学的意味での男性」に限定し、womanとmanと対比させて使用している。その理由は言うまでもなく、生物学上の性別を否定・軽視するジェンダーアイデンティティ理論に対する批判論を展開するために必要だからである。よってfemaleとmaleについては、文脈に応じて(ここでも過度に読みにくくならないよう配慮しつつ)、単に「女性」または「男性」ではなく「生物学的女性」または「生物学的男性」と訳した。
以下、重要タームについて採用した訳語を列挙する。「gender affirmative=ジェンダー肯定的」、「gender dysphoria=ジェンダー違和」、「gender (sex) nonconforming=ジェンダーに(性別に)不適合な」、「gender reassignment =ジェンダー再適合」、「misaligned gender identity=性別と一致しないジェンダーアイデンティティ」。
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試し読みは以上です。本書の詳細はこちらからご覧ください。
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